鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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t専の採用と独立した阿弥陀堂の建造という東大寺阿弥陀堂への大きな発展,さらには円i東大寺阿弥陀堂の実態は不明ながらも,池を配していなかったとすれば,法華寺阿弥陀浄土院の前身建物に池の系譜を求められる可能性があり(注5),阿弥陀浄土院は東大寺阿弥陀堂に堂外の池という新たな要素を付加させた形態であったという評価になろう。阿弥陀浄土院は,天平宝字4年(760)7月26日に光明皇太后の一周忌斎会のために完成を遂げたもので,その背後には当然ながら光明の娘,孝謙太上天皇が位置する。一方の東大寺阿弥陀堂は光明皇后との関連がつとに指摘されるところであり,興福寺五重塔は光明の発願である。また,伝橘夫人念持仏も光明の母,県犬養橘三千代のものとみる見解が有力である。そうすると,伝橘夫人念持仏にみられるよう阿弥陀三尊のみの立体表現から,興福寺塔の阿弥陀浄土群像を立体化する四仏浄土を経て,緑来由浄土庭園の景観を呈する法華寺阿弥陀浄土院へと至る変遷のなかに,三千代→光明→孝謙という三代の女性による阿弥陀浄土再現に向けた信仰の軌跡が内包されていることになるだろう。7 緑紬水波文埠と弥靭浄土・薬師浄土次に,緑紬埠の第l段階とした諸例を検討したい。まず興福寺の東金堂では,薬師浄土を表現する意図のもとで緑粕埠が使用されていたことになる。奈良時代にみられた『薬師如来本願経j. r薬師如来本願功徳経j. r薬師瑠璃光七仏本願功徳経Jなどの薬師経典には,いずれも仏土が瑠璃をもって地となし,また西方極楽浄土の加しと記されている。緑粕埠の使用は,瑠璃地であるという教義に沿っているものと言え,水波文が描かれたのも阿弥陀浄土との関連を視野に入れるべきかもしれない。一方,東金堂に先立つ中金堂例については,弥勤浄土を示すために緑紬埠が使用されていたことになる。この当時の弥勤信仰としては,r弥勅上生経jに基づく上生信仰が主流を占めたとされているが,その『上生経』では,瑠璃地などを直接表現していない。ただ,賓宮あるいは瑠璃・頗禁(破璃)や摩尼などの表現が認められ,緑柚埠による荘厳に結びついた可能性はある。また『上生経jは『観無量寿経』と関連深い経典とされ,しかも弥勤浄土とされた兜率天と阿弥陀浄土の未分化の状況が奈良時代にまで残る可能性が指摘されており(注6),それが緑紬水波文埠の使用につながることは十分に想定される。なお,r続日本来日養老4年10月条にみえる「造興福寺仏殿司」

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