鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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nhU oo は,不比等一周忌のために建立された北円堂だけでなく,同時に進められた中金堂の弥軌浄土変像の造立にも携わったと推測されている(注7)が,官営工房で独占的に技術が保持されていた可能性が強い緑紬を施した埠の使用からも,それを裏付けるものと言える。残る川原寺は,史料や出土瓦から天智天皇により創建されたという説が有力である。川原寺出土の緑粕半肉彫り水波文埠もその創建期のものとみられ,現在までのところ日本最古の緑紬埠である。ところが,使用場所が明確でないことに加え,寺そのものも史料がほとんど残されていないことから,その機能も不明と言わざるを得ない。ただ,川原寺金堂の礎石に白大理石を用いるなど,天皇発願の寺院として豪華な内容の伽藍を有しており,当時において最新でかつ高度な技術を必要とする緑柚埠が使用されたことも十分に領かれよう。ここであわせて注意しておくべきなのは,川原寺で採用された緑柚埠が,その後の官大寺たる大官大寺や本薬師寺ではどうやら採用されずに,興福寺で再び中金堂の弥勤浄土の一部として採用されていることである。その背景としては,一つの仮説ながら,川原寺に弥勅仏が安置され,緑粕I専を用いて弥勤浄土が再現されていた可能性が挙げられるのではなかろうか。大官大寺は釈迦丈六像が,薬師寺は薬師知来が本尊であることから,緑紬埠の不採用に対する一つの説明になるだろう。また,天智朝は弥勅信仰に関する確実な史料が集中的に現れる時期と評価され(注8),天智天皇自身も弥勤信仰に基づく造像をしたとされているので,時代状況には適合する。さらに,川原寺は飛鳥川原宮の跡地に母帝である斉明天皇の冥福を祈って建てられたと考えられるが,当時の弥勅信仰としては,奈良時代の例を含めても追善的弥勤上生信仰が顕著とされ,その発願の意図にはむしろふさわしい尊像と言えよう。ただ,平城遷都後については,元興寺金堂,それに興福寺でも中金堂と同時期に北円堂で弥勤仏が安置されたが,それらでの緑柚埠の使用は現在までのところ明らかではない。もしも緑紬埠が使用されていなかったとすれば,そこには別の説明も必要となる。そうなると,興福寺において北円堂は単に弥勤とされるのに対し,中金堂では弥勅浄土と史料上で区別されていることが注目されよう。それは,奈良時代も後半ではあるが,弥革力坐像を安置する唐招提寺講堂では緑紬痔が出土していないのに対し,弥勤浄土変像を造立していた西大寺弥助金堂を含む金堂院では無文ながらも緑紬埠が出土することとも対比できょう。つまり,弥勤仏の存否ではなく,弥軌浄土変像か否

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