鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
628/670

かが緑紬埠使用の重要な規定因子とみなせるだろう。そして,川原寺から出土する多量の埼仏には,同ーの図像でありながら,裏面に「阿弥他[陀]Jあるいはr(弥)勤Jr稗(迦)Jなどと書き分けていることが知られ,当該期において尊像の表現が定式化していなかったことも注目される。そのような段階であるからこそ,阿弥陀浄土の瑠璃池にふさわしいとも言える緑粕水波文埠が,仏国土の蓮池,あるいは弥勅浄土の表現形態として採用されたのだろう。さらに上記に加えて,川原寺と興福寺を直接的に結び付ける側面も無視できない。緑粕埠からすると,川原寺例と興福寺中金堂例はともに半肉彫りで厚みも近似しており,両者には系譜関係が濃厚だからである。そこで着目すべきなのは,藤原京期に川原寺が大官大寺・薬師寺・飛鳥寺とともに四大寺としての位置を占めていたのに対し,平城遷都後に川原寺は平城京内に移らず,その位置に興福寺が食い込むようになる点である(注9)。緑紬埠の採用は,川原寺を継承し,あるいはそれを乗り越える存在としての興福寺を象徴する一要素となっていた可能性も指摘できるかもしれない。もし仮にそのような状況が成り立てば,山階寺につながる中金堂の釈迦,元興寺をモデルとする北円堂の弥勤,それに川原寺からの系譜をヲ|く中金堂の弥勅浄土変像,ということになり,それは藤原氏の氏寺に淵源を持ちつつ,中心的な教学として法相宗を位置付け,川原寺に替わる四大寺としての地位を占めるという,創建期興福寺を特徴付ける3つの要素をまさに反映していることになろう。8 緑柚水波文I専の系譜これまで日本での使用例とその背景を辿ったので,最後に中国・朝鮮半島との関係に触れておくことにしたい。朝鮮半島については,特に新羅において有力寺院を中心に緑紬埠の使用を確認できる。例えば,新羅華厳において著名な義湘が創建したという浮石寺では,その中心堂宇に相当する無量寿殿において緑紬埠が使用されていた。これは,日本と同様に,阿弥陀浄土の瑠璃地として,緑柚の埠が用いられていたことを明示する例である。ただし,新羅において水波文を刻む埠は現状では確認できない。あえて言えば,千鳥形と呼ばれる波形の外形を持った慶州・四天王寺出土の緑柚埠は,組み合わせると水波文に見えるかもしれないが,日本のように渦など様々な表現にはなりがたいため,やはり異質というべきであろう。一方,中国における緑紬の敷埠の出土はきわめて少なく,長安の大明宮において緑

元のページ  ../index.html#628

このブックを見る