鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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⑪ 国家,都市,現代美術一一国際美術展パリ・ビエンナーレを手がかりに一一研究者:東京大学大学院日本学術振興会特別研究員l.はじめに第二次世界大戦後,rビエンナーレJrトリエンナーレ」などと呼ばれ定期的に開催される国際美術展が,美術作家とその作品を権威付ける制度として大きな位置を占めるようになった。1895年にベネチアで創設され,1950年代にはサンパウロ,東京,カッセルなどで相次いで設立された国際美術展は,1980年代以降さらにその数を増やし,芸術的価値が付与される場として今なお広く認識されている。主に国や地方自治体の文化政策の一環として開催されるこのような展覧会では,現代美術の価値と規範が焦点、となり,世界の美術関係者の注目を集める。その影響力は,19世紀フランスの官展(サロン)が保持していたそれと比較して論じられることが多い。フランスでは,1959年,第五共和制の発足と機をーにして「パリ・ビ、エンナーレ」が,フランス美術の国際的な地位の維持と回復を目標として創設された。同展は,35 才以下の若手作家のみに出品を認める「青年ビエンナーレ」として,そしてベネチア,サンパウロのビエンナーレへの登竜門として知られるようになり,国際美術展の権威主義的なあり方が問題とされた1970年代には,前衛美術,とくに若い作家の異義申し立てを擁護する展覧会としても一定の評価を得た。同時に,文化省,外務省,パリ市所管の公共事業団体が実施する同展は,いくつかの公募団体展や画廊が存在するのみで,現代美術専門の美術館組織が未整備の時代に,若手作家に表現の機会を与え,公的な作品買い上げの対象となる数少ない芸術創造の振興施策のーっとして位置付けられた。しかし1980年代に入って美術市場が国際的な規模で活性化し,また文化省主導の文化政策が国内で進展するなかで,パリ・ビ、エンナーレのあり方は再検討されることになる。他の国際美術展と同規模かつ国内最大規模の展覧会を開催して,再びフランスの国際的な地位を高めるとの至上命令のもと,1985年,13回目のパリ・ピエンナーレは「新生パリ・ビエンナーレ」と名を変えて開催されたのである。しかし,本展は,大幅な赤字を計上し,中止に追い込まれた。こうして1980年代後半には,フランスにおける国際美術展に関する構想が改めて検討されることになる。そして1991年,ビエンナーレが開催されたのはパリではなく,フランス第二の都市リヨンであった。パリ・岸清香-622

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