鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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ビエンナーレはその翌年に組織団体が解散することとなり,フランスでは現在に至るまで,リヨン・ピ、エンナーレが唯一国家規模の国際美術展として位置付けられている。本稿は,国際美術展パリ・ビエンナーレに関する研究の一環として,再出発とともに中止に至ることになるその1980年代の展開を検討し,そのような結果をもたらした社会的な背景とそれが今日の現代美術の芸術生産に対して持つ意味について考察することを目指している(注1)。この際,リヨン・ビエンナーレを比較対象としながら新生パリ・ビ、エンナーレの一連の過程を検討すると,1980年代を通して国際美術展と現代美術をめぐる環境が二つの点において大きく変化したことが観察できる。すなわち,現代美術の芸術生産をめぐる社会的な構造が国家と都市の関係の変化のなかから再構築されるとともに,芸術生産上支配的であった美術界内部の力学が転換していくのである。「これはパリ・ビエンナーレに限ったことではないが」と断った上で,1983年,組織団体の総代表は,同展が「現在の形式において危機に瀕している」と記している(注けるフランスの作家の存在感の薄さが繰り返し指摘され,フランスが国際的な動向から排除されているとの認識が窺われる。同時に,I前衛という概念の消失と崩壊という事態にいかに対応していくか」という芸術理論上の課題そして「フランスが自らのイメージを再確認する手段を見つけ出し,圏内及び、国際的な水準の双方において新たなプレゼンスを獲得するJとの文化政策上の課題が提起されている。これらの課題に応えるべく,新生パリ・ビエンナーレは,1985年3月~5月,通常の三倍増の補助金を含む事業予算1500万フランのもと,パリ東北部の開発の一環として進められていたラ・ヴィレット公園大ホールの開設記念展として大々的に開催されたのであった。同展は,“presentation/representation"をテーマに,1970年代末から1980年代初頭,欧米,特に米・伊・独三国を中心に展開していた「ニュー・ベインティンするもので,米・伊・独・仏の国際審査委員の選考に基づき,120作家が出展した。従来の年齢制限が廃されて著名な作家も出展し,会場では文化大臣のパフォーマンスが繰り広げられるなど,メディアの注目も集まった。グJ,Iトランス・アヴァンギヤルデイアj等いわゆる新表現主義の作品を中心に紹介2. 1980年代フランスにおける国際美術展の展開2 )。そこには,ドイツ・カッセjレやイタリアのベネチアで開催された国際美術展にお-623

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