しかし,若手及び中堅の美術関係者による評価は,この展覧会に対して批判的であり,米・伊・独の有名作家の前に出展作家の半数を占めるフランスの作家が展示上不当な扱いを受けているとして問題視された。パリの一画廊が発行する美術雑誌『シメーズ』は,2回の特集を通して,同展が「ドイツやイタリアの画家の国際的優越性を何年も遅れてパリで立証するもの」であり,そのような作品群にパリが「占領jされたと強く抗議した。rJレ・モンド』紙は,展覧会に「いかなるテーマ性も解釈も見出すことができない」として,総花的かつ「臆病で型にはまったJ作品選考は,4人の国際審査委員の妥協の産物であると評し,1新生ビ、エンナーレはその大いなる目標の水準にはない」と結論した。さらに,美術専門誌『アール・プレス』は,1国際的な舞台におけるパリの再興」などという政治的目論みが前面に出ていて,芸術的な動機が全く感じられないと批判した(注3)。いずれも,1国際美術展というゲームに勝つための新たな規則を打ち出すどころか,規則自体を心得ていないJ(注4)という点においては共通して同展の限界を指摘したものと言えよう。さらに,主催者内部からも,運営上の「失敗」を指摘する声が出てくる。新設の会場を使用することに伴い,工事費や作品保管経費を中心に1000万フランにのぼる赤字が発生してしまったのである。パリ都心からの交通手段の未整備からか,入場者数が予想、の半分以下であったことも問題視された。展覧会閉会後,組織団体の総代表は辞任となり,主催者であった文化省とパリ市の間では赤字を補填するための交渉が長く続けられた。ビエンナーレの再開については,1987年頃から新会長と新総代表を迎えた組織団体において検討されるようになるが,結局打開案が見出されることはなかった。そんななか開催されたのが,リヨンでのビエンナーレであった。1991年9月~1O月,リヨン現代美術館館長の芸術監督による展覧会“L'amourde l'art" (芸術愛好)は,リヨン市,国,ローヌ・アルプ地域圏の助成によって実現に至った(注5)。同展は,1フランスにおける現代美術」との副題のもと,1972年にパリで開催され物議をかもした11960-1972年:フランスにおける現代美術の12年J展を踏まえて70人のフランス人ないしフランス在住の作家に限って紹介するものだ、った。「フランスは受入れの地として外国人作家を幅広く迎え入れているが,自国の作家を国外で売込むことに非常に苦労している」なか,フランスの現代美術を国際的に「開放jすることが目標とされたのである(注6) 0 1新しい美術館を建設する必要性を世論に訴えるために,前菜として-624-
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