3. I地方分権化」と現代美術ビ、エンナーレを提供する必要は本当にあったのか?Jとの声も聞かれるなか(注7), 国家規模の展覧会の到来は地元ではとりあえず好意的に受け止められた。「国際ビエンナーレをノfリの外で,国の大規模な支援を得ながら開催することにより,ヨーロッパ建設の動きのなかで文化の地方分権化を進める」とリヨン市の文化助役が発言しているように,同展の開催は「地方分権化」を推進していた文化省の意向にも沿うものであった。こうして,パリで国際美術展を継続する意義と必要性が認識されつつも,パリ・ビ、エンナーレの組織団体は1992年には解散されることになった(注8)。このように,国際美術展がパリからリヨンへ移った背景には,1980年代を通して推進され,1地方分権化」という概念によってしばしば表されてきたフランスにおける文化政策の再編があったと考えられる。フランスの文化政策では,伝統的に演劇,音楽が中心的な施策領域であった。美術の分野では美術館の運営が基本とされ,現代美術関係の施策はあくまでも市場活動の補完を目的とするものに限られた。一部の例を除き,地方自治体の取組みはさらに限定されたものであった(注9)。そんななか,1981年以降の社会党政権下において,造形芸術を「不遇の分野jと位置付け,1国家的及び国際的な観点に基づく最大多数による最も現代的な芸術の形式へのアクセスjを目標に掲げた積極的な政策が打ち出された(注10)0 1982年6月には文化大臣が「芸術創造72の施策jを発表し,同年10月に設置された造形芸術局(以下DAP)が,施策推進の中心的な役割を担うことになる。文化省の総予算は1981~ 1982年の聞に倍増したが,造形芸術関連予算は,これを上回る形で1981~ 1982年に二倍を超えて増加し,さらに1981~ 1983年にはほぼ三倍増となるなど重点施策として位置付けられることになった。1985年のパリ・ビエンナーレの大規模化の背景にはこのDAPの強力な後楯があったのである。さらに,DAPは「地方分権化J(decentralisation)を彊い,I地方分散化J(deconcen凶tion)と呼ばれる一連の施策を進めていった。これにより各地域圏(r句ion)には造形芸術顧問と地域圏現代美術基金(FRAC)が設置された。また,従来の美術館組織とは異なりコレクションを持たない現代美術の展覧会施設として「現代美術センターjを各地で設立することを推進し,美術学校への支援を強化したのである。このような国レベルでの動向を受けて,現代美術に関する施策を本格化した自治体-625-
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