のーっとしてリヨン市を挙げることができる。1976年にリヨン現代美術スペース(ELAC)を設立した岡市では,近隣都市のグルノーブルやサンテテイエンヌに比して現代美術施策の整備の遅れが指摘されていた。1983年,リヨン美術館に現代美術部門を設立し,グルノーブル美術館の若手学芸員を起用して現代美術館のコレクションの収集に着手し,同時に,現代美術祭「芸術の十月」を文化省の助成を受けつつ開始したのである。岡市では,やはり1984年よりダンスのビエンナーレが開始されたが,1991 年には現代美術についてもビエンナーレ化して,芸術監督をリヨン現代美術館長に委託した。二つのビエンナーレは,I国際都市」を目指す文化政策の中核的な文化事業として位置付けられたのである。このように,1980年代のフランスにおける「文化の地方分権化jは,多くの主要都市において,都市のイメージ戦略,経済的効果,国際的威信の増大等を目標とする文化行事の開催や,独自の文化政策の策定等として進展していった(注11)。このような展開は,I再中央集権化J(r巴C巴ntralisation)として理解することができょう(注12)。フランスにおける文化政策は,この時期,I文化的民主化」と「芸術創造支援」のように時には互いに矛盾する従来の施策を予算倍増によって共存させるとともに,それによって地方自治体の積極性を引き起こし,結果的に国の活動の増幅をもたらすという形で転換したのである。その一方で,パリ市では,全国的に見られた「地方分権化」の動向に対して距離を置く独自路線が打ち出されていた。歴史的に知事と警視総監が国の委任により市政を担当していたパリでは,地方公共団体法の適用により,1977年,公選された市長による新市政が始動した。これに伴い,文化遺産の保護とパリ市民の文化活動の支援を二つの施策優先領域とする文化政策が策定されたのである。一方で,現代美術に関しては,国の施策がパリに集中しているとの見地からも重点領域とはならなかった。加えて,パリ・ビエンナーレに会場を提供していた市立美術館が独自に財源を確保して展覧会政策を採るようになると,ビエンナーレとの協力関係は次第に困難なものになっていった。新生パリ・ピ、エンナーレの赤字の責任は,パリ市側では,一貫して,事業を主導した文化省DAPのみが負うべき問題であると位置付けられた(注13)。このように,国際美術展がパリからリヨンへと「移転」した背景には,文化省主導の文化政策において現代美術が施策対象分野として発見されるという国レベルでの動きと,自治体レベルでの文化政策の進展とが交錯する様相を確認することができる。626
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