鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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パリ・ビエンナーレの「失敗」が,直接的には財務上の赤字を原因とする一方で、,それを埋め合わせ,展覧会を継続する努力がなされなかった背景には,このような社会的構造の変化が認められるのである(注14)。4.おわりに現代美術の芸術生産をめぐる力学の転換一方,国際美術展は,1980年代のフランスにおいて,規模の上で拡大するとともに,作品選考の方法等の形態面においても転換を見せ,他の国際美術展との競合を一層図るようになっている。すなわち,従来のパリ・ビエンナーレが採用していた複数の専門家による審査方式では展覧会としての一貫性や独自性に欠けるとされるなか,リヨン・ビエンナーレでは,展覧会のテーマ設定に戦略的に取組んでいることが強調されている。1993年の第2回展以降は,テーマ選定と同時に当該分野の専門家をゲスト・コミッショナーとして任命し,作品選考を依頼する形式をとるようになったのである。このような国際美術展に見られる戦略化は,1980年代に起こった美術市場の拡大を背景とする現代美術専門の展覧会や組織の量的な拡大やその多様化と専門化の進展と機をーにするものと考えられる(注15)。リヨン・ビエンナーレの場合,展覧会用に制作された作品が買い上げによって美術館のコレクションを形成するという形で,その活動がリヨン現代美術館の権威付けの戦略と重なり合っているのである。さらに,既に見た国際美術展の展開は,パリ・ビエンナーレを支えていたある種のパリ=フランス中心主義が終駕を迎えたことをも意味するものと考えられる。かつてパリで国際美術展を開催することは,それ自体この都市の国際的中心性と前衛性とを証明するはずで、あるという論理に支えられていた。しかし,以上に見られる国際美術展をめぐる戦略化は,この論理がもはや,国際美術展というゲームの規則としては通用しないという事実を示したものと言えよう。1985年の新生パリ・ビエンナーレにあたって寄せられた批判に対して,同展の総代表は,これらの論評が「フランスにはもはや偉大な作品は存在しないとする過小評価,自分達は裏切られるのではないかという強迫観念,そして新しいものは何もないと決めつける無感動な態度」を示すものであるとして反批判を加えているが(注16),ここで擁護されているもの自体が,パリ・ビエンナーレの終鴬とともに無効とされることになったのではないだろうか。すなわちそれは,しばしば「エコール・ド・パリ」という概念に込められ,パリ・ビ、エンナーレによって体現されると考えられていたパリ=フランスにおける芸術生産の先駆性と-627

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