その国際的な中心性への寛容なまでの信仰であった。そして代わって押し進められるべきはリヨン・ビエンナーレによって提示された「フランスの現代美術を国際的に開放」することであり,I今日地方都市は自立している。リヨンは今後アムステルダム,エッセン,ミラノやサンフランシスコと,パリを通さず直接取引していくだろうJ(注17)というリヨン現代美術館館長の発言に見られるような「パリ」を背負わず,アメリカやヨーロッパの作家作品を積極的に取り上げることを可能にした別種の想像力であった。パリ・ビエンナーレの終罵は,こうして,1990年代以降のフランスにおける美術界内の階層秩序と力学の再編成を加速化することになったと考えられる。その後実現には至っていないものの,1995年と2001年にパリ・ビエンナーレ再開の構想が持ち上がっている。それらの試みは,パリ=フランス中心主義の再興とともに新しい芸術創造の場としてのパリ像の模索を目指したものであることが窺われるが,これを受けて最近,国(文化省)とリヨン市の間では国際美術展に関する協定が結ばれている。同協定は,文化省がリヨン現代美術ビエンナーレを国家規模の文化事業として公認すること,及び,国,リヨン市の両者が今後二回の展覧会に対して財政的義務を負うことを定め,リヨン・ビエンナーレの地位を暫定的に保証したのである(注18)。いまだ国際的中心を成すという「フランス美術Jのイメージを「確認」する手段から,そのイメージを「開放」する手段へ。本稿では,このような集合的な想像力に認めれる転換について,主に三つの側面から検討してきた。すなわち,1980年代のフランスにおける国際美術展の展開は,1地方分権化」とも「再中央集権化Jとも言われる文化政策に見られる社会的力学の変化と,1何を見せるかjというよりは「いかに見せるか」を争点とする新たな芸術生産の「規則」への対応とが交差する地点にあって,現代美術をめぐる国家"都市関係の位相をずらすと同時に,美術界に固有の階層秩序を再編成するものとして機能したのだとひとまず結論できょう。こうして,現代美術をめぐる利害の多様化とそれを支配する力学の拡散という新しい局面を迎え,国際美術展の必要性や存在意義自体が問われつつある現在,その前段階としてパリ・ビエンナーレが及ぼしていた芸術生産への影響力の実際があらためてオ食討されなければならないだろう。-628-
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