カfある。注(1 ) 同展の創設の背景とその政治的,文化的争点については以下の拙論において考察(2) G. Boudaille,“Reformuler la Biennale", 25 mai 1983, Archives de Paris (以下AP(3) G. Breerette,“Foisonnante et desordonnee", Le Monde, 24 mars 1985, P. Restany, (4) D. Abadi巴,idem. (5) 会場は,トニ・ガルニエホール,リヨン現代美術館,リヨン現代美術スペース(6) 芸術監督T.Raspailの発言。B.Guardi,“L' Art francais a Lyon", Figαro Rhone (7竹)C.F針r悶a叩ncぬblin凡lし,“(8) 解散にあたって,文化省造形芸術局局長は「専門家や行政官の間での会合が操り(9) 1968年の冬期オリンピックを機に現代美術を都市づくりに活用したグルノーブルしたことがあるJ国際文化交流と『国民文化』の表象戦後フランスにおける国際美術政策とパリ・ビエンナーレ」平野健一郎編『国際文化交流の政治経済学』勤草書房,1999年,47-78頁。現代美術に関する公共政策及び国際戦略としてのパリ・ビエンナーレの役割の重要性は,美術制度史や芸術社会学の諸研究において部分的には言及されているが,展覧会自体が終了して顧みられなくなっている感と略),1489 W /13. “Montoire a la Villette: L' occupation de Paris", Cimaise, mars-m創1985,D. Abadie,“La rとgledu jeu", Cimaise, juin 1985, C. Millet,“11 faut avoir des rai-sons de faire une exposition", Art Press, mai 1985. (ELAC) ,事業予算は1200万フラン。Alpes, 7 septembre 1991. する「芸術の十月」が,Iささやかではあるけれども活気のある事業」であったのに対し,1この小さな冒険の炎を巨大な蝋燭消しの道具に取り替えなければならなかったのか」との疑問が呈されている。返されたが,市長のレベルで合意が成されることはなかった。」と記している。F. Barre,“Note sur la ‘Nouvelle Biennale de Paris'ぺ27novembre 1991, Archives nationales, 950316, art. 12. や,1973年のパリ市立近代美術館における現代美術セクションの設立等はわずかに1970年代末に始動する国の取組みに先駆する例である。629
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