金蒔絵を基調とし,羽根,腹部,尾には銀蒔絵による蒔き量しを用いて羽毛の柔らかさを表現する。雑草穀類は本草画のように葉脈,葉の虫食い,穂先まで丁寧に描かれる。その輪郭には主として金蒔絵を用いており,葉脈などには銀蒔絵を用いて細密な描写をする。輪郭の内側には内蒔きがされる。土坂は金銀の蒔き量しである。蓋裏と見込には,小振りな折枝梅花を一枝と栴花弁を数片,蒔絵で散らし文様に表す〔図lfJ。ほっそりとした枝に円形五花弁の梅花と枝先に行くにつれて大きさが逓減する円形菅をつける折枝梅花,円形五花弁,一片二片の梅花弁を散らす図様となっている。折枝梅花の図様は12世紀から13世紀頃にかけての工芸意匠に散見されるが,このように折枝の周辺に円形五花弁や一片二片の花弁を配するものは,広隆寺上宮王院本尊の聖徳太子像(元永3年・1120)内に納入されていた壊箱や奥州藤原氏の三代秀衡,四代泰衡の私邸である伽羅御所跡から出土した「梅枝蒔絵鏡箱」残欠(平泉郷土館蔵)など12世紀の遺例に見出すことができる。金剛寺に伝世する本作品は昭和10年に吉野富雄氏によって発見されて,その後,同氏の手によって修理された経緯がある。この間の事情については吉野氏自身による文章がある(吉野富雄「金剛寺の野辺に雀蒔絵手箱Jr大和文華.14号昭和26年,同「野辺に雀蒔絵手箱Jr国華.1790号昭和33年)。その文章を参考にしつつ現状観察を行うと,本作品の修理に際しては蓋に塵居が設けられて,身の畳ずれが塗り直され,蓋と身の口縁には紐が巡らされるなどの作業が行われたことが確認される。また,場景意匠の所々には黒漆を塗り直して平塵を蒔いた形跡も窺える。塵居や畳ずれに修理が施されているので当初の法量とは言えないが,現状では純白8.3センチ,横42.3センチ,高18.8センチとなっている。一般にこの箱は手箱と称されているが,特に根拠があるわけではなく,灰野昭郎氏は経箱の可能性も指摘されている(京都国立博物館特別展覧会図録『蒔絵』平成7年)。本作品についてはX線や実体顕微鏡を用いた科学的な調査も行われている。まず中里毒克氏が行われたX親調査によると,下地の布着せの多くは当初のものであって,平安時代の典型的な施工であると報告されている(中里書克「野辺雀蒔絵手箱Jr中尊寺金色堂と平安時代漆芸技法の研究』至文堂平成2年)。また内田篤呉氏が行われた実体顕微鏡によるマクロ的観察によると,雀や雑草穀類に用いられている蒔絵粉には平安時代の蒔絵粉との類似性が認められるが,一方で平塵に用いられている蒔絵粉には当麻寺の当麻量茶羅厨子扉(仁治3年.1242)の蒔絵粉との類似性が指摘されてい-58-
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