猫図」の意匠にも,黄茎や黄居菜,または徐崇矩(徐!県の孫)といった名前が関わっていたのであった。もちろん,黄・徐といった名前が宋画において占める歴史的役割を考慮すると,彼らの発明や工夫は宋画の共通財産となり,すでに個人や一派を超えたものであったと推察される。この点は注意するべきである。それでも従来,黄・徐といった名前を導き出しうる日本美術の当代遺例が見当たらなかったなかで,これらの事例を確認したのは,平安後期頃に散見されるようになる草花鳥獣意匠が中国を中心とする東アジア美術と連動するという見地に立つ時,決して無意味ではないと考える。もしも,この時期の日本美術に東アジア美術のなかで連動的に理解されうる点があるのならば,まず,その事実を確認するための根拠を指摘しておかねばならない。そして,わずかばかりながら,その根拠は見出された。すなわち,平安後期以降における身近な草花鳥獣に取材した花鳥画や花鳥意匠というものは,中国において唐に発端して五代・北宋を通じて形成される宋画のージャンルである花鳥画を母胎とした東アジア美術の普遍的現象の一端であると理解されるのである。はたして,平安後期頃の美術における身近な草花鳥獣を主題とする美術類型について,そのいちいち全てを伝来宋画に基づくとは言い切れないかもしれない。日常身近な草花鳥獣を取り上げるというのは,一度学習されれば応用性の効くものでもあり,日本において発明・工夫された点もありえたと考えられる。それでも,平安後期頃になると日常身近な草花鳥獣に取材した美術類型が散見されるようになるという,そもそもの美術史的現象の発生については,やはり東アジア美術史のなかで連動的に理解されると考えている。そのように考えれば,金剛寺蔵「野辺雀蒔絵手箱」や春日大社蔵「沃懸地蝶鋼毛抜形太刀」に表された場景意匠といつのは,決して偶然的な例外的な作例ではなく,美術史的必然性が想定される範囲内の作例,つまり大いにありうるものとして理解されるのである。両作品は日本美術史上における素晴らしい工芸品であり,それ自体が第一次資料として取り上げられるが,その意匠の成立経緯を考えると,伝来していたはずだが失われた宋画を考えるうえでの第二次資料としても有意義なものである。申すまでもなく,今に伝世する美術品というのは,当時の全作品ではない。失われた作品をも考慮しながら美術史を組み立てるには,一点々々の遺品がもっ潜在力を可能な限り引き出す必要があると考える。以上,今後に課題を残す感はあるが,これをもってひとまずの結論としたい。-64-
元のページ ../index.html#73