鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
81/670

Willer 1994)。両像の群像としての制作を否定する論拠の一つである。(13) 着色ブロンズの表面にところどころ着色の痕跡が残っている(Will巴r1998, 88)。頭部,左腕,トルソの左側(Willer1998, 88Abb. 29),遊脚,支脚の足に,厚さ0.2mm,純粋な硫化銅からなる(Kupfersulfid: Eggert 1994, 1034; Willer 1994 [SchwarzpatinaJ ; cf. Zimmer 1985, 48-49)黒光りのするパテイナが認められ,鋳造後の仕上げ作業の痕跡と同ーの層に属し,かつパテイナの一部がその後に生じた腐蝕と海中の付着物に覆われていることから,制作時に意図的に施された着色と考えられる。マフデイアの一括出土品のブロンズには他にも「役者小像J(F225: Mahdia 1994, Farbtaf. 23), I踊るこびとjの目(F215: Mahdia 1994, Farbtaf. 35, 3), Iクリネー」の部品(Mahdia1994, Farbtaf. 35, 1 )などに意図的な着色が認められるが,その厚さは「エロースjよりもかなり厚く,2mmに達する例もある(Will巴r1998, 88n42)。着色によってブロンズとは異なる色彩を作り出すと同時に,ブロンズを腐蝕から守る目的もおそらく担っていた。クリネーの他の部品(Nr.4 )には硫黄で着色した後で銀を象翫して,その部分を際立たせていた例がある(Willer1994 [SchwarzpatinaJ, 1024-1025, 1025Abb. 2 -4 , Mahdia 1994, Farbtat.35, 5 ; Willer 1998, 88n43)。復元的実験に基づき,加熱したブロンズに硫黄の蒸気を当てて刷毛で塗りつけたと考えられる。翼の開口部から像の内部にまで侵入しているので,少なくとも両翼を熔接する前,従って像を基台に据え付ける前に行われた筈である。(14) 日の挿入目は両方とも失われているが,熱に弱い物質が象醍されていたはずで、,加熱を伴う熔接作業がすべて終了した後で装着されたに違いない(Willer1998, 87)。同基台への据え付け右の下腿のエックス線写真を見ると,鉛の充填の上限のすぐ上に,普通よりも大きい約2cmX2cmの正方形の献金が認められる(Will巴r1998, 86Abb.28)。固定釘の最金は最大でも8mmX8mmであり,しかもエックス線写真では最金の奥に固定釘が抜けた空所が認められるが,下腿の鼠金の場合そのようなことはない(Willer1998, 87n 37)。この穴はすでにロウの段階で聞けられており,鋳造各部品の組み立て後,その穴から鉛を注ぎ込んで彫刻を基台に固定したと考えられる(cf.Bol 1985, 162 -163) 0 [リアーチェABJの脚にはこのような窓はなく,この技法はヘレニズム期の特徴と考えら72

元のページ  ../index.html#81

このブックを見る