あみがみれる。鉛の分析によって,ほぞとして両足に流し込まれた鉛はサルデーニャ産と推定される(Begemann-Schmitt-Strecker 1994)。これに対し〔ヘルメ柱〕の柱に充填された鉛はラウリオン鉱山産で,この点も両像の群像としての制作を否定する。II [マフデイアのヘルメ柱J(Tunis, Musee National du Bardo, Inv. F107) 総高105cmo柱部分の幅14cm-15.5cm。両腕の出っ張りを含む最大幅25cmoWillcr 1994 [HermeR], 953. 1987-1992年の修復調査によって,ヘルメ柱は失蝋法で作られ,直接法と間接法が併用されていることが明らかにされた。角柱は直按法,デイオニューソスの頭部は間接法である。鋳造は角柱・頭部合わせて一回で行われたすなわち主要部については分鐸なし。図2参照。制作年代は前2世紀後半と推定される(Hellenkemp巴rSalies 1994 ; cf. Mattusch 1994 [前2世紀中頃])。(1) 柱:原型=鋳造原型の制作断面四角形の鉄棒を地面に立てて支柱とし,その周りに湿った粘土ニ鋳造土をつけて角柱を象り,角柱部分の粘土原型を作った(Willer1994 [HermeH], 960Abb. 2)。鋳造土は内部に全く残っていないため,粘土の性質は不明である(Schneider1994)。この原型に合わせて前面,背面,両側面,計四枚のロウの板を準備した。レントゲン写真によって,前面と背面はそれぞれ一枚のロウの板で,両側面はそれぞれ縦に細長いロウの板二枚ずつを接合して,作られていたことが分かる(Willer1994 [HermeH], 960Abb. 1 )。前面の板の中央には男性器,背面上端には四本の編髪,両側面上方には腕の出っぱりをロウで、象って装着した。このうち両腕の出っ張りは,まず中空の直方体を作り,外側をロウの板で閉じ,両側板の当該箇所に取り付け,側板の対応箇所に開けた穴から内部に粘土すなわち鋳造土を詰めたことが,内視鏡写真から分かる。四本の編髪はまだ現在見る形ではなく,頭部のロウ原型を乗せてからさらにロウを加えて象った。これはコンビューター断層写真から分かったことである。(4)参照。以上の装着が終わってから,四枚のロウの板を粘土の角柱に押し付け,すべてを互いに密着させた。頂部だけはまだ鋳造土が露出したままである。粘土原型がそのまま鋳造原型とされたため,これは直接失蝋法である。73
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