鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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(2)杉戸絵の配置案も,報告書では数多くの修繕や改造を認めながら,およそは解体直前の姿と当初の姿は大差がなかったものと推定している。しかしながら,肝心の杉戸絵については,Iすでにはずしてあった為不明である。当初のものは欄間建具のみである」とし,杉戸絵はおろか,すべての建具に関する言及がない。従って,杉戸絵の配置や,間仕切りに関しては,友泉亭の建築に関する記録から復元することはできない。ただ報告書には,がらんどうとなっていた建物を実測したデータと図面,建設当初の姿を想定した平面図が添付されていた。そこで,詳しくは述べないが,現状の調査結果と報告書のデータを基本とし,報告書の図面を補い,修正しながら杉戸絵制作当時の友泉亭復元平面図を作成した。この作業で参考となったのは,わずかl枚ではあるが,昭和初期に撮影された外観の写真〔図1Jである。この写真から,屋外に面した建具はガラスの戸板だったことや,南側の廊下に面した建具の一部も杉戸ではないことが確認できた。また,終戦直前の幼い頃,友泉亭に一時期疎開しておられた松永冠山の子息松永寿人氏によって,およその間取りや建物の様子に関する証言(注2)を得た。こうしてようやく杉戸絵の復元配置の準備が整ったのである。復元配置を困難にしたのは,実は〔図2J ~ [図4Jの写真だ、った。杉戸絵制作当時友泉亭を所有していた炭坑王の貝島家に残されていたこれら3枚の写真は,完成当時の杉戸絵の姿と,今は失われた部分も確認できる貴重な資料で,最初は,この写真のとおりに見えることを前提として様々に配置を試みた。ところが,どのように配置しても矛盾が生じる。例えば〔図3Jのように竹図をー列に並べると,裏側の図様が連続しなくなる。また〔図4Jのように睡蓮図6枚をー列に並べられる場所も平面図からは発見できないのである。復元平面図に致命的な誤謬があるのかとも思ったが,問題は写真のほうにあった。子細に見ると,[図4Jの右側3枚は畳の上に立てかけられているだけで,本来の位置にはまっていないのである。すると,竹図もまた,仮に並べられて撮影された可能性が高い。そこで,結局は復元平面図から割り出した杉戸の幅や,図様の連続,裏表の関係,また数枚の縁にチョークで「北廊中」など書かれた手がかりをもとに,写真は無視して配置を試みた。その結果が〔図5Jである(・は現存せず。〔図6Jも参照されたい)。最大の手がかりは,二間続きの居室の東側の部屋(図では松の聞とした)では,北84 -

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