われる。以上のように復元平面図への配置は,結果的にただひとつの案にまとまった。法量の点で矛盾がなく,かつ図様の連続もそこなわない配置は,他になかったのである。こうしてみると,失われたことが明白なのはわずか4枚と床の間だけで,他の箇所にも杉戸絵があった可能性はあるものの冠111の制作全体を術蹴することのできる量は十分に残されていたことになる。(1) 全体構想、松永冠山の意図が,友泉亭の居室をそれぞれ単一の花木で飾ることにあったのは明らかである。これをわかりやすくするために,(図5Jでは,竹の間,松の間,梅の間,睡蓮の間と居室に名をつけ,廊下も,柳の廊下,薄の廊下とした。〔図6Jの「友泉亭杉戸絵復元図J,(図7](図8Jなどとあわせて参照していただきたい。友泉亭がもともと福岡藩主の夏の別荘だ、ったことが,近世的な障壁画の構成をした第一の理由であろう。藩主の居室だ、ったと考えられる床の間のある部屋を雄大な松図で、飾ったのもうなずける。次の間は夏の別荘であることを意識して竹としたのではないだろうか。東北に位置する部屋には雪を被った梅を描いて冬景とし,北の廊下のふたつの区画には,芽吹いたばかりの柳で早春を,倒れかかる薄で晩秋を配したと考えられる。東南の部屋を睡蓮の間としたのには理由がある。松永寿人氏の証言によると,ここは仏間だった。おそらくは,建設当初から仏間だったのだろうと思われる。睡蓮図のうち,丈が高く裏面になにも描かれていない4枚は,仏壇を納める場所の扉だ、ったのである。全体を伝統的な花鳥図で統ーしたもうひとつの理由は,昭和11年当時の冠山の環境にあったと考えられる。彼の画業のなかで,数十枚に及ぶ障壁画の制作は初めてだ、ったこと,当時冠山はまだ郷里福岡におらず,京都で制作活動を続けおり,それこそ手本になるような大寺院の近世障壁画が身の回りには豊富にあったことである。ただ,全体構想、がすんなりと決まり,制作も順調だ、ったとは到底思えない。冠山に杉戸絵の制作を依頼した貝島家の貝島書夫氏(故人)が聞いたところでは,最初冠山は,京都から何度か通い,2, 3ヶ月で完成させるつもりだったらしい。しかしながら実際には,まるI年にわたって友泉亭に住み込み,ょうやく完成させた。おそらく2 杉戸絵の全体構想、と表現-86-
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