鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
98/670

十89-花の中に視線を遊ばせるところに意図がある。いわば両者では,地と図の主従関係が逆転しているのである。すがすがしい空間は共通するものの,こうした微妙な変化はどのように生まれたのであろう。この間いに答え,論理的な説明を可能にする作品こそ,友泉亭の杉戸絵にほかならないと思う。一年を要した制作を通じて,冠山は初めて本格的に花鳥画に取り組んだ。杉板という特殊な素材が,それを要求したのである。空間表現にこそ手腕を発揮する気鋭の画家が,杉板によって背景描写を拒否され,風景画を捨てることを余儀なくされた。連続する杉戸絵の障壁画という特殊性を克服するには,近世初期の巨木構成や花鳥画の表現を借りるしかないと結論したのであろう。それはまた,地と図の関係から絵画表現を見直す契機にもなったはずである。そうした視点でもう一度友泉亭の杉戸絵を見直すと各部屋の画題によって段階的に試してみたという解釈もできる。地に対して図が圧倒的に強い松図と両者が調和する竹図の中間に睡蓮図が位置する。竹図から,図がほとんどものを言わない薄図までの問には,梅図,柳図と並べられる。完成当時,圧倒的な迫力の松図は貝島家や黒田家の人々から賞賛されたであろう。しかし冠山にとっては,松図は一度きりの作品であり,地と図が胃司和した竹図が最も好ましく,今後の自分の表現へ応用していける作品だ、ったのではないだろうか。こうした推論を後押しするのは,後半期の花鳥画である。「夏秋草図」には,前半期の風景画において達成された湿潤で清新な空聞が,最初から画面の素地として準備されているように思える。大気は友泉亭における杉板の木目のように,描く前から冠山の目の前に広がっているのであり,描き込む必要はない。そして,冠山の準備した大気から現れ出るに最もふさわしいものは,日本の四季を彩る草花の姿だ、ったのである。このように解釈することによって,主題が風景画から花鳥画へと変化しながら,独特の空間を保持していった冠山の画業全体に筋道をつけることができるのではないだろうか。おわりに昭和63年,松永冠山の郷里糸島郡の前原町(現前原市)で,初の回顧展が開催された。しかし,失われたと思われていた友泉亭の杉戸絵は出品されていなかった。郷土の美術界にとって大きな足跡を残した冠山の研究と顕彰は,まだ端緒についたばかり

元のページ  ../index.html#98

このブックを見る