鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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⑩ 1880年前後のロシアにおける歴史画とイリヤ・レーピン研究者:神奈川県立近代美術館学芸員籾山昌夫1870年代末から80年代は、サンクト・ベテルブルグの帝室美術アカデミー(以下、「アカデミー」という)と一線を画した移動美術展覧会組合(以下、「組合」)がロシアの美術界に影響力を持ち、ヴラジミール・スターソフ(1824-1906)(注1)などの批評家がその活動を強く擁護していた。当時、祖国の過去を描いた歴史画は、この移動美術展覧会(以下、「移動展J)を中心に発表され、それ以降も、特に帝政ロシアとソヴイエト連邦のナショナリズムが高揚した時期には、組合の会員を中心とする出品者たち、いわゆる「移動派」の重要な作品として認められてきた。ところが、1880年前後において、移動展を擁護してきたスターソフや、組合の創立者たちは、過去を描く歴史画に対して否定的であった。一方で、、アカデミーによる給費留学から帰国した後、モスクワに住み、1878年に組合の会員となったイリヤ・レーピン(1844-1930)は、スターソフの反対を押し切り、ロシアの過去の史実を描き、また、同世代のヴァシーリイ・スーリコフ(18481916)やヴィークトル・ヴァスネツォーフ(18481926)などの歴史画も支持した。19世紀後半のロシア美術に占める歴史画の重要性を顧みる時、1880年前後にレーピンが示した態度は決定的に重要であるが、その背景には、従来から指摘されている古都モスクワの環境に加えて、1870年代末のロシア美術界におけるレーピンの立場、彼の芸術に対する考え方、さらに、変化する社会思想があったと思われる。本稿では、当時の評論や書簡などの文献資料を手掛かりに、上述の状況を明らかにし、1880年前後のレービンの歴史画に対する態度を分析する。移動派の指導者たちの歴史画に対する否定的な態度歴史画に対する、移動派の指導者たちの否定的な態度は、『ヨーロッパ報知』誌に1882年と翌年に掲載されたスターソフの論文「ロシア芸術の25年」によく現れている。レーピンには歴史的事実を追求する才能も、また、現代とは別の時代へと芸術家を導く想像力もない。それゆえに、彼の皇女ソフィアは、ぎこちなく不自然で白々しく、自分の壮大な計画のすべてが完全に失敗し、絞首刑にされた銃兵の死体を自分の僧坊の窓外に見つけた恐ろしい瞬間に、彼女に激情を引き起こしたはずの悲劇的感情の極僅かな表出もない。ソフィアの顔は仮面であり、その表情は醜く歪んでい95

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