鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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4) て、ポーズには活人画のようなわざとらしさがある。現実や自由な創造は、この絵のどこにもない。(注2) しかし、レーピンの〈ノヴオデーヴイチイ修道院の皇女ソフィア}(1879)〔図1〕、〈イヴァン雷帝とその息子イヴァン}(1885)、〈ザポロージエのコサック}(1880-91) といった歴史画は19世紀後半のロシア絵画の代表作として今日広く認められており、歴史的追求力や想像力の欠如をレービンに指摘するのは必ずしも適当で、はない。それどころか、スターソフのす比判は、スーリコフとヴァスネツォーフにも及んでいる。最近、一連の出来の悪い歴史画に次いで[省略]スーリコフの〈銃兵処刑の朝}(1880) 〔図2〕というもうひとつの作品が現れた。この絵には、欠点が少なくない。それは、画面上部のピョートル一世の芝居じみた様子、ベトローフスキイ連隊兵士、貴族、外国人、銃兵の妻たち、そして何よりも銃兵そのものの不自然さ、そして第一に必要とされたところる。(注3) 何よりも注目すべきであるのは、芸術家によって選択された時代が我々から遠ければ遠いほど、[描写は]拙くなり、いよいよ上手くいかなくなったことである。そのため例えば、戦いの場に臨み、岐路に立ち、魔法で空を飛期し、あるいは沈思する〈英雄たち〉は、ロシアの画家にとって、それはもう全く無意味である。ヴァスネツォーフほどの才能ある素晴らしい芸術家も、ロシアの古事に取り組む時、[省略]『イーゴリ軍記Jまたはロシアの叙事詩や昔話の立派な勇士たちの代わりに、何か下手な作りものを単に提示した時には、[他の画家と]見分けがつかなくなった。(注西欧の新古典主義に追従していたアカデミーによるロシア芸術の排他的支配を、西欧に対するロシアの後進性のひとつと見なしていたスターソフは、1870年の組合の結成に、アカデミーから自立した祖国の芸術家が、ロシア独自の美術を確立するという希望の実現を期待していた(注5)。一方、1869年9月にグリゴーリイ・ミャソエードフ(1835-1911)が起稿した「移動展覧会組合規約草稿」第l項には「移動展覧会組合の設立は、地方に住む人々にロシア美術の成果を見る機会を与えるという目的を持っている。J(注6)と記されており、それは明らかに、1868年のペテルブルグにおける銃兵の母親たちである老婆の像一ーにおける表情の欠如であ96

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