鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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学生運動を経て、1873年と翌年の夏をピークに学生を中心とする人民主義者が民衆の中に入り革命と社会主義を説いた「人民の中へj運動に通じる啓蒙的性格を持っている。従って、移動派作品の主流は、同時代の民衆の生活を解り易いリアリズムで描く批判的風俗画であった。それゆえ、スターソフや組合の創立者たちは、若い世代の歴史画家が組合の啓蒙的な規範を歪めてしまうことを危倶したのである。歴史上の主題による我が国の絵画の多くに欠けているもののすべて、悲劇性、緊迫性、魂の深い動き、自然さ、真実、そのすべては、ロシアの最も優れた芸術家さえほとんどいつも、かくも成功していないのだが、彼らが歴史上の主題に取り組むと、その欠如が現れる[省略]無理と欺踊的行為がなくなり、ロシアの芸術家は歴史上の主題をもはや必要としなくなった。自分の生活として、自分の生活の一部、いつも住んで、いる環境、いつも見、聞き、経験しているものとして、自らが知っていることを才能をもって描出することだけが問題であるとき、一体それら[歴史上の主題]をどうしろというのか?(注7)古都モスクワの環境移動派の指導者たちのこのような態度とは逆に、レーピンはロシアの過去の史実、1698年にピョートル一世に対して、かつてその摂政を務め、その後ノヴォデーヴイチイ修道院に幽閉されていた異母姉ソフィアを担いで銃兵が起こした反乱に取材した〈ノヴォデーヴイチイ修道院の皇女ソフィア〉に取り組む一方、同世代の画家による歴史画も擁護した(注8)。過去の史実に対するレーピンの傾倒は、古都モスクワの環境が大きな要因であると従来から指摘されている(注9)。1876年7月に帰国した後、故郷ウクライナのチュグーエフ村に滞在していたレービンは、1877年9月にモスクワに移り、1882年秋にベテルブルグに転居するまでの5年間をこの古都で過ごした。〈皇女ソフィア〉は、レーピンがモスクワに転居してまもなく、1877年12月にカンヴァスに描き始められ、1879年1月に僅かl年余で完成した。レーピンは組合の有力な指導者であるイヴァン・クラムスコーイ(183787)に、モスクワで着手した作品について報告し、〈皇女ソフィア〉に言及している。〈ノヴォデーヴイチイ修道院の皇女ソフィア〉これ[修道院]は、すぐ近所に在るのです。97

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