鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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そう、私はモスクワをとても気に入っていますし、[この古い都を]研究する必要があります。(注10)レーピンがモスクワで親しく接した芸術家は、ヴァスネツォーフとヴァシーリイ・ポレーノフ(18441927)であった。彼らは、モスクワとその郊外の古い遺跡に熱中し、しばしば3人そろってモスクワ郊外を歩き、多くの習作や素描を描いた。私は(ポレーノフ、レヴィーツキイ、そして時にはヴァスネツォーフと連れ立って)モスクワ郊外の至る所に出かけ、歩いています。[省略]なんと古いものが、修道院、とりわけトローイツェセールギエフ[修道院]とサヴヴィーンスキイ[修道院]にまだ7支っているのでしょう!(注11)古都モスクワで、レーピンはサーヴア・マーモントフ(18411918)とパーヴェル・トレチャコーフ(183298)という2人の重要なパトロンと親しく接するようになった。鉄道経営者マーモントフは芸術に強い関心を持ち、多くの文化人が彼の周りに集った。モスクワ郊外の彼の地所アブラームツェヴォはピョートル一世以前のロシアの価値観を尊重する知識人との結び付きが強い土地であった。レービンはモスクワのマーモントフ邸をしばしば訪れ、また、1878年夏にはアブラームツェヴォに滞在した(注12)。この頃、マーモントフはヴァスネツォーフとも親交を結び、叙事詩に詠われる過去に対するヴァスネツォーフの関心を支えた。一方、紡績業で財を成したモスクワの実業家トレチャコーフは、1856年からロシア絵画を収集し始め、祖国の過去を描いた歴史画に対しても深い理解を示したO組合の創立者ミャソエードフが退会を灰めかして1880年の第8回移動展への出品に反対し、スターソフが「ロシア芸術の25年Jの中で酷評したヴァスネツォーフの〈ポロフツとイーゴルとの闘いの後>(1880)を購入したのはトレチャコーフである。トレチャコーフは〈皇女ソフィア〉、〈イヴァン雷帝とその息子イヴァン〉などの歴史画の他、〈クールスク県の十字架行進>(1880-83)などレーピンの主要な作品を購入し、その創作活動を支援した。従来から指摘されている通り1880年前後にレーピンが歴史画に対して示した積極的な態度の背景には、上述のような古都モスクワの環境があったことは確かで、ある。それに加えて、1870年代末のロシア美術界におけるレーピンの立場、彼の芸術に対する考え方、そして、変化する社会思想も重要な要因であったと思われる。98

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