鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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1870年代末のロシア美術界におけるレーピンの立場レーピンがモスクワに転居した頃、ペテルブルグでは、1878年のパリ万国博覧会におけるロシア芸術コーナーの準備が進んでいた。アカデミーは政府委員にアンドレイ・ソーモフ(1830-1909)を選ぴ、書誌学者ニコライ・ソプコ(1851-1906)を助手とした。1877年12月、彼らは作品選定のためモスクワに来て、レーピン家も訪れている。その際、レーピンは着手したばかりの〈奇蹟のイコント〈村の学校〉、〈皇女ソフィア〉を出品候補に挙げたが、結局それらは間に合わず、トレチャコーフがすでに購入していた〈長輔祭>(1877)〔図3〕、〈不吉な眼をした男〉、〈ソプコの肖像〉をアカデミーの審査展覧会に送ったのである。当時、アカデミーの給費期聞が終了していたレーピンは、移動展への参加を考えていた。同展の規則では、一度他の場所で展示された作品は出品できないことになっていたため、レーピンは〈長輔祭〉が万国博覧会に出品されないようであれば、審査展覧会にそれを出品しないで欲しいとクラムスコーイに頼んだ。パーヴェル・ミハイローヴイチ[・トレチャコーフ]が、つい数日前に[省略J3 点の作品をパリ博覧会のために送りました。[省略]けれども、お願いがあるのです。もし、〈長輔祭〉がパリに送るには不適切で、あると判断されたら、それを移動展覧会のために預かつて下さい。[省略]もし選ばれないのであれば、〈長輔祭〉をあなた方のところに出品したいと思うのです。どうやらアカデミーの保護[給費]が中断されたらしい今、私は自分がアカデミーの道義的な圧力から自由であると思っていますし、それゆえ、多年にわたる私の希望の通り、あなた方の移動美術展覧会組合の会員候補として頂きたいのです。私は組合とすでに長い問、深い道義的関係にあり、ただ全くの外的な事情によって、組合の設立時から参加することができなかったのです。(注目)ところが、政府委員会は各作家から2点ずつ出品する決定をし、レーピンの作品からは、〈長輔祭〉と〈ソプコの肖像〉を採用せず、〈ヴォルガの船曳>(1870-73)〔図4〕と〈不吉な眼をした農夫>(1878)をパリに送ることにした。もし私が嘘つきであるならば、〈長輔祭〉が万国博覧会に持っていかれなかったのはとても嬉しい、と言うでしょう。いやはや、あきれたものです!それで、も慰めは少なくありません。というのも、私はあなたと共にあるからです!今や私はあな-99-

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