鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
110/592

た方のものです!(注14)1878年2月にレーピンは組合の会員となった。第6回移動展は同年3月9日にペテルブルグで開催され、そこに〈長輔祭〉が展示された。それはレーピンにとっての新たな一歩である以上に、様々な困難に直面していた組合にとっても特別の意味を持っていた(注15)。〈ヤイロの娘の復活>(1871)によってアカデミーのコンクールで大賞金メダルと給費留学の権利を得る一方、1873年のウィーン万国博覧会に〈ヴォルガの船曳〉が出品されて以来、レーピンはロシア美術界で注目される存在であった。特にスターソフは、船曳の労働を力強く描いたレーピンを反アカデミーの旗手として取り上げ、ある論文の中では、レービンの書簡から、アカデミズムの象徴としてのラファエロ批判とも解釈できる箇所を作為的に引用さえした(注16)。レーピンの助言者であり、組合の擁護者であることを自認していたスターソフは、レーピンが組合に参加するというこの機会を最大限に利用した。「移動展覧会組合jは、年々ますます困難な状況になっている。[省略]あのアカデミーは、組合にこれ以上アカデミーの展覧会場を提供するのを拒否し、そうすることで、自立を願って自分の仕事のために奔走するロシアの芸術家[組合]の創意と成功に全く喜んではいないことを表明している。同じアカデミーの庇護の下に、独占を狙って出品者を執拘に招き入れる別の「展覧会協会Jが設立されると、ある[組合]参加者はもっともらしい口実で脱退し、別の参加者はいかなる言い訳も無しに消え去り、また別の参加者はもっと酷くて、何もしたいとは思わず、ただ生き長らえている。まあいい!見てみるがいい、「組合」は一向に気に掛けやしない。災難に次ぐ災難を引き受けては払いのけ、その後も相変わらず、何事もなかったかのように、活き活きと、力強く、健全である。[省略]私が述べようとしているのはレービン氏についてである。この芸術家が展覧会に寄せたのは、[省略]習作のみであったが、それらの作品は展覧会で輝いており、一般の声に従えば、仲間の中で最も優秀でフk準が高い真の傑作で、あった。実は、レーピン氏は、独創性と新たな力で、崇高、深遠かつ素晴らしいしミかなる業績にも遁進できなかった数年間の国外滞在の後、今や故郷に戻り、いつの聞にか彼の才能に適した環境の中に再び、入って、停滞と休眠の後10倍の力で目が覚めたようである。すでにパリ万国博覧会のために、彼が描いた何点かの肖像画と習作がモスクワから送られたが、それらには才能と若く雄々しい力が刻まれていた。これらの習作のひと100

元のページ  ../index.html#110

このブックを見る