~102 に出品したのである。レーピンの芸術に対する考え方レーピンが〈皇女ソフィア〉に取り組んだ背景には、芸術家は与えられた環境に応じて自由に創造できるという考え方があったと思われる。それは給費留学中のフランスでマネや印象派など、従来の規範に囚われない新しい芸術に接することで形成されたのかもしれない(注19)。1874年、ノルマンデイのヴールで制作していたレーピンは、自らの〈ヴォルガの船曳〉に具現された移動派の批判的リアリズムを放棄する意志を表明した。今や私は判断の仕方を完全に忘れてしまいましたが、私の頭から離れなかったこの能力の喪失を残念に思ってはいません。反対に、それが戻らねば良いと思っています。ただし、我々の愛する祖国の境界の内に戻れば、それが再び私に対してその権利を行使するであろうと感じています。それが風土なのです!どうかロシアの芸術が行き過ぎた分析から無事でありますように!(注20)一方、レーピンはアカデミーの課題制作である〈水底の王国のサトコ>(1876)の制作を途中で放棄し、〈パリのカフェ>(1875)というパリの同時代風俗の描写に取り組み始めた。これに対してクラムスコーイは、ロシアの画家がロシア民族に関係のない主題で描くことに否定的な意見を表明したが(注21)、レーピンは与えられた環境に応じた自由な主題選択を主張した。ロシアの伝説や歴史に基づいた主題よりも、すぐに手に入る同時代の主題の方が、はるかに適当であると考えました。[省略J1世紀、もしくはひとつの世代で確固たる規則、ゆるぎない真実と見なされているものも、次の世代では無用な愚かしい陳腐な決まり文句であるのです。芸術の手段はさらに早く進化し、各々の芸術家の性向に左右されます[省略]ですから、どうして「芸術の主要条件やその手段」に固執できるでしょうか。(注22)しかし、1870年代のロシアにおける社会思想の変化に着目すると、レーピンが〈皇女ソフィア〉という主題を選択したもうひとつの理由が明らかになる。
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