変化する社会思想啓蒙主義的な移動派の指導者たちにとって、ピョートル一世は称賛すべき改革者であった。1871年の第1回移動展には、ニコライ・ゲー(1831-94)の〈ピョートルとアレクセイ>(1871)とミャソエードフの〈ロシア海軍の祖父>(1871)という2点の改革者ピョートル一世の絵が展示された。その後、アントコーリスキイも、称賛すべき人物としての〈ピョートル一世>(1872)を彫った。しかし、1870年代末までに、ピョートル一世は、改革によってロシアに有益な変化をもたらした称賛すべき人物ではなくなった。彼は、その土地固有の伝統を根こそぎにし、ロシアに異質で抑圧的な仕組みを負わせた独裁者となった。まず、大衆の順良さとその共同体的習慣に夢中になった人民主義者による「人民の中へ」運動が、ロシア社会の伝統的調和を破壊したビョートル一世の西欧化に対する敵意を生み出し、その後、イギリスとフランスの支援を受けたトルコから南スラヴを解放することを大義名分にした露土戦争(1877-78)が、反西欧的感情を強め、ピョートル一世は西欧の有害な模倣者として一層厳しく非難されたのである。移動派の指導者たちの次世代に属するレーピンは、官僚制度を挙げてピョートル一世を批判している。そう、官僚制度、官僚制度なのだ!何を言おうとも、それこそピョートルが成し遂げたことだ。彼はロシアを農奴化し、外国人に仕えさせたのだ。[省略]才能のないドイツ人も皆、ロシアの完全な指導者、啓蒙者となり…才能ある人々は、長い間沈黙させられた。ピョートル以前の我々の祖先は、愚かではなかったし(私は今、当時について学んでいる)、彼らは外国人から学んでいたが、それは自由意志によるもので、最良のものを選んでいたのだ…。ピョートル以降、何か全く異なったことになり半文盲のドイツ人兵士のひとりひとりが、自分を偉大な教化者と思い込み…、そしてロシア人官僚のひとりひとりが、外国人として振舞うように心掛けた。(注23)つまり、レーピンの〈皇女ソフィア〉は、ピョートル一世の西欧化に対する反抗の象徴であり、露士戦争によるナショナリズムの高揚を反映しているとも言える。このように、1880年前後のレーピンの歴史画に対する積極的な態度は、古都、友人、パトロンといったモスクワの環境、スターソフによって付与された立場とその束縛に対して、環境に応じて自由に創作する意志の表明、さらに、ナショナリズムの高揚と103
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