鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
114/592

注(1) 19世紀後半のロシアにおける有力な批評家で、1872年から帝室公共図書館の美術部長。(3) Ibid., p. 121. (5) 『同時代人Sovremennik』誌1863年第4号、第5号に掲載されたロンドン万国博覧会についての記事「万国博覧会(1862)の後でJの中でスターソフは、イギリス人批評家フランシス・テイラーの言葉を引用して、ロシア美術の後進性を指摘している。「不思議なことに、ロシアの展示会場(7) Vladimir Stasov,“Dvadtsat’piat’l巴trusskogo iskusstva,”Izbrannye sochne山Gνdνukhtomakh, (8)例えば、1881年2月27日付トレチャコーフ宛書簡ではスーリコフの〈銃兵処刑の朝〉に対して好いった社会思想の変化を背景にしている。そして、レーピンの〈皇女ソフィア〉は、まさにこれらの焦点に位置する作品であったのである。VS巴mirnoivystavki (1862),”Izbrannye sochneniia v dvukh tomakh, v. 1, pp.46 89.引用は(2) 「ロシア芸術の25年」は『ヨーロッパ報知V巴stnikEvropy』誌1882年11月、12月、1883年2月、7dvukh tomakh (Moscow Leningrad: Iskusstvo, 1938) v. 2, pp. 23 286.引用はp.99o(4) Ibid., p.117. pp.47 480 ( 6) Gosudarstvennaia Tret’iakovskaia galereia, Tovarishchestvo predvizhnykh khudozhestvennykhνystaーvok: Pis’ma, dokumenty, 1869-1899 (Moscow: Iskusstvo, 1987) v. 1, pp. 51-53.引用はp.510 v. 2. p.122. (9)例えば、Igor'Grabar', Rep in (Moscow: Izdat巴l’stvoakademii nauk SSSR, 1963) v. 1, pp.187 230. (10) 1878年1月13日付クラムスコーイ宛書簡。PerepiskaI. N. Kramskogo,巴dS. N. Go!’dsht巴in(Moscow: Iskusstvo, 1953-54) v. 2, p. 360. (11) 1878年7月9日付けスターソフ宛書簡。Pis’maI. E. Repina. I. E. Repin i V. V. Stasov: Perepiska,巴d.A. K. Lebedev (Moscow Leningrad: Iskusstvo, 1948-50) v. 2, p. 34. (12) 1871年から73年にマーモントフはイタリアで、レービンの友人、彫刻家マルク・アントコーリス同1878年2月13日付クラムスコーイ宛書簡。PerepiskaI. N. Kramskogo, p. 362. (14) 1878年3月6日付クラムスコーイ宛書簡。PerepiskaI. N. Kramskogo, p. 364. 月、10月に掲載。VladimirStasov,“Dvadtsat’piat’let russkogo iskusstva, '’lzbrannye sochneniiαν では、あらゆる[イタリア、オランダ、フランス]独自の影響の欠点を見ることができる。その重みでロシア美術は現在の全く不完全な発展段階に留まっている。」VladimirStasov,“Posle 草稿に署名した23人にレーピンも含まれているが、アカデミーの学生であったため組合の創立には参加しなかった。意的な意見を伝えている。「スーリコフの作品は、あらゆる点で強烈な深い印象を与えます。[省略]その絵はこの展覧会における我々の誇りであると、皆の顔に書いてあります。」〈皇女ソフィア〉と〈銃兵処刑の朝〉は同じ史実を題材にしている。キイ(1842-1902)やポレーノフと親交を結び、アントコーリスキイがペテルブルグのレーピンとスターソフにマーモントフを紹介した。同アカデミーからの独立性を明らかにすると、組合は1875年からアカデミーの展覧会場を使用できなくなり、アカデミーの学生も移動展に出品することを禁じられた。アレクサンドル二世は組104

元のページ  ../index.html#114

このブックを見る