鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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(16)論文「イリヤ・エフィモーヴィチ・レーピンjは『ミツバチPchela.I誌1875年第3号に掲載。(17) 「リトアニア国境の居酒屋」の場面に登場する、修道院を逃げ出し酒に溺れる破戒僧。戯曲の初(1紛展覧会評「1878年の移動展」は『新時代Novoevremia.I紙1878年3月29日と30日に掲載。Vladimir(1め第1回印象派展覧会を見たレーピンは「フランスにも新しいリアリズムの一傾向、というよりは(2J) 1874年10月28日付クラムスコーイ宛書簡。Perepiskal.N. Kramskogo, p.317. (22) 1875年8月29日付クラムスコーイ宛書簡。PerepiskaI. N. Kramskogo, p. 344. 合にも発注していたが、76年以降はアカデミーを介するようになった。このような運営上の困難に加え、組合の創立者ヴァレーリイ・ヤコービ(18341902)、アレクセイ・コルズーヒン(1835-94)は一度も出品することなく退会し、ヴァシーリイ・ペローフ(1833-82)も1878年に退会しマ,,。Vladimir Stasov,“II’ia Efimovich R巴pin,”Jzbrannyesochneniiaνdvukh tomakh, v. 1, pp. 808-818. 演は1876年(モデースト・ムーソルグスキイ(1839-81)のオペラは1870年作曲)。Stasov,'‘Per巴dvizhnaiavystavka 1878 g.,”lzbrannye sochneniia v dvukh tomakh, v. 1, pp. 235・256.引用はpp.235,245-248。むしろ、そのカリカチュアが現れました。[それらの絵は]恐ろしいほどに無秩序ですが、何かがあります。」と報告している。1874年4月25日付スターソフ宛書簡。Pis'ma I. E. Repina, p.94. 凶「民族に根ざしている時のみ、力強いのです。普遍性はどうかと、あなたは言うかもしれません。でもしかし、普遍的なものが芸術に入って来るのは、ただ民族的な形を通してです。」1875年8月20日付クラムスコーイのレーピン宛書簡。PerepiskaI. N. Kramskogo, pp. 341-342. 加)1878年12月18日付スターソフ宛書簡。Pis'maI. E. Repina, pp. 41-42. -105-

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