鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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⑪ 『ジャズ』一一作品分析の方法論をめぐって一一1939年、第二次大戦勃発直前という時期に『ヴェルヴ(精彩)』誌の編集長であり、そ研究者:関西外国語大学国際言語学部助教授大久保恭子はじめに『ジャズ』はアンリ・マチス(H巴mMatiss巴:1869-1954)による20枚の図版と手書きの文章とからなる「書物」として1947年9月30日に出版された。この企画は8年前のれまでもマチスにその表紙の装飾を依頼していたテリアド(E.Tenade)から持ち込まれたものだった。しかしマチスが印刷による色彩の劣化に不安を抱いたことから、一旦は沙汰止みになった。ところが1943年になってテリアドは唐突にマチスから2枚の図像、後に『ジャズ』に収録される〈道化師〉と〈トボガン樟〉とを見せられ、企画は実現に向けて動き出した(注1)。最良の印刷インクを求めてさらに2年を費やす聞にマチスは、「書物jの題名を「サーカスjから「ジャズ」に変更し、図版に添える文章を自ら書き起こした。1946年に20枚の図像すべてが完成し(注2)、文章との合成が行われて翌1947年に刊行の運びとなった。『ジャズ』は実に10年近くもかけたマチスの晩年の注目すべき作品となったのである。1 作品分析の状況とその問題点1 )制作手法と制作手順この作品を論じるにあたってこれまで着目されてきた最大の特質は、20枚の図像が切り紙という手法を用いて制作されたことであったOまずマチスは選定した厚手の紙に助手を使ってグワッシュで彩色させた。その際混色は避けさせたが濃淡は容認し、ときには塗りの方向が分かるほど薄塗りにさせもした。その後にマチスは、予め素描をするか場合によっては記憶から形を決定し、彩色済みの紙を「気ままに」「一気にj切り抜いて「図」を作った(注3)。こうして切り抜かれたさまざまな形は必要な時まで手元に取り置かれた。その時がくるとマチスは、それらの「図」を画面に、『ジャズ』以降は画面の拡大に伴って壁にピンで留めたりはずして入れ替えたりを繰り返し、構成を決定した。最終的な構成が決まると「図jを「地」に接着させて切り紙絵の完成とした(注4)。この手法をマチスが用い始めたのは、1931-33年にかけて制作されたアルパート−C・パーンズ(AlbertC. Barnes)の依頼による〈ダンス〉の下絵からであった。それが独立した作品の制作手法になるのは『カイエ・ダール(芸術手帳)』誌、『ヴェルヴ(精-107-

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