鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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3.未完成レリーフについての考察3.1.未完成レリーフの位置なく、以下にあげる説が主なものである。Bernet Kempers は著書の中で、レリーフを制作した彫刻家の彫刻工程についてのTh. van E叩の説をまとめている。彼によれば、まず彫刻家は滑らかな石の壁面上に、木炭あるいは他の顔料でレリーフの各場面を大まかな輪郭糠で描き、その後、のみで輪郭を彫っていった。それから場面の背景が彫り窪められ、人物やその他のモチーフの輪郭がはっきりと彫られた。次に、モチーフの細かな部分が表され、ひとつひとつのモチーフが立体的に彫り出された。しかし背景部分の石材から分離するほど立体的に彫られたモチーフは見られない(注5)。1989年に出版されJ.Fonteinの著書の中にも、「隠れた基壇jのレリーフについての記述が見られる。彼によると、未完成レリーフと刻文のあるレリーフの位置を考えると、Pradaksina (注6)の方向にしたがって、彫刻家のグループが右回りで作業をしていったことは明らかである(注7)。この考えについては、後で再度取り上げたい。またJ.Fonteinは、彫刻工程についても述べている。彼の考えはTh.van Erpの説と似ており、まずレリーフの彫刻を担当した建築家または学識のある僧侶は、レリーフの元になる仏典を手に、ボロブドウール全体でのレリーフの位置や、そこに表される場面の主題を決めながら、ボロブドウールの回廊を右回りに巡ったに違いないとしている。場面の説明またはキーワードがレリーフの上枠に示された後、彫刻家はレリーフを彫り始めた。おそらく最初は、石材の表面に下書きの線描きをして、それから輪郭を彫り、モチーフのシルエットを彫り出していったと思われる。彫刻家は、輪郭がしっかり彫り出されてから、モチーフを立体的に彫り始めることができた(注8)。J. Fonteinが述べているように、彫刻作業は元になった経典の順序に従って、右回りに行われたと考えるのは、論理的であるように思われる。しかし、彼の考えは確固とした根拠があるわけではない。なぜなら未完成レリーフの位置を考えると、彫刻作業は経典の順序どおりに行われたのではないことが分かるからである。未完成レリーフの位置をボロブドウールの平面図の上に示してみると、未完成レリーフは主に北口から東口の壁面に位置していることが分かる〔図1〕。各回廊の説話レリーフは東口から始まるので、東口はボロブドウールの正面であると考えられており、人々はここからボロブドウールを右回りに巡って上方へ登っていったのだろう。また、刻丈のあるレリーフがボロブドウールの東北角から東口までの部分、つまり回3 -

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