鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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致している。だからこそ、天は教会であり、地は教会なのである(注12)Jと述べる。この2つの教会の並置は天と地の教会の調和こそまことのエクレシアであるとするベアトゥスの教会論と一致しているのである。V.「キリスト伝」諸場面「キリスト伝」諸場面は、「キリストの系図」から連続する「受胎告知」(fol.15)に始まり、「マギの礼拝Jと「ヘロデ王の逸話の小サイクル」(fol.15v)、「カイアファの前のキリスト」と「ペテロの否認」(fol.16)、「疎刑」(fol.16v)〔図6〕、「埋葬」と「キリストの出現」(fol.17)〔図7〕、「冥府降下」(fol.l 7v)〔図8〕、「義人の悦び」(fol.18) 〔図9〕で締めくくられている。フォリオ15vにキリストの生涯を要約したテキスト以外まとまった文章がなく、フォリオ15から18まで、挿絵と画中調によってのみ物語を語るしくみとなっている。〈ジローナ本〉の忠実な写しとして知られる〈トリノ本〉の受難サイクルの5主題〔図10〕はおそらくフォリオ15と16の間にあったと想定される。先行研究では、この「キリスト伝」諸場面に関し形体の比較を中心とした図像の源泉の想定と、イメージからテキストを完全に還元することはできないにもかかわらず、イメージの源泉となったテキストの同定がもっぱら用いられてきた(注13)。ところが、〈ジローナ本〉の巻頭挿絵の特徴を挙げれば、テキストに比較的還元しやすい福音書の記述に忠実な挿絵と、まったく還元できない挿絵そのほとんどが「天図」の図像要素と共通するーとが境界棋なしに混在していることにある。つまり、「テキスト探索Jからでは解釈不可能な仕方でイメージが実現されているのである。その画面構成を見ると、時間軸はテキスト本来のナラテイヴを保持しながら、テキストには還元できない図像をそこに組み込んでいる。この組み合わせは、〈ジローナ本〉独自の画面構成の原則に従って注意深く行われ、それに基づくプログラムで巧みに観者の視線を伝達したい内容に向けてあやつっている。「キリスト伝」諸場面は、「テキスト探索」だけではなく、むしろ全体の構成、各図像要素の配置、空間の構成方法、背景の有無、同一写本内の他の挿絵からの借用など、イメージ実現の選択肢をまずもって議論する必要がある。ここでは、〈ジローナ本〉の巻頭挿絵全体の構成における一つの原則を指摘することにしたい。それは善と悪とを対置させて、善を際立たせる図像の配置にある。fol.15vでは、ヘロデを前に決して妥協することのない幼児キリストの態度を落馬して怪我をするヘロデの姿と対置している。それはキリストの勝利者及び審判者としての立場を浮かび上がらせるのに効果的である0fol. 16の「カヤパの前のキリスト」では、教会の122

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