つLHれは次のようになる。「その、ち大納言もとら(「はj誤脱)れなとしてことあらはれてのちなんなかされける麿天門をやきてまことの大臣におほせてかのおと〉をつみせさせていちの大納言なれはわれ大臣にならむとかまへけることのかへりてつみせられけむいかにくやしかりけむ」。「伴大納言絵巻」の詞書がこのように締めくくられていることについて、小峯和明氏は、次のように述べている(注2)。「『いかにくやしかりけんjとは、伴大納言の野望や陰謀を非難するのではなく、むしろそれを積極的に肯定して、彼の心情によりそって解釈した文言であり、これは疑いなく伴善男の魂を慰撫する鎮魂の表現にほかならないJ。ところで、「伴大納言絵巻」の詞書は、『宇治拾遺物語』巻第十に収められた「伴大納言応天門を焼く事Jという説話とほぼ同文であることが従来から指摘されている。そこで、「伴大納言応天門を焼く事」の最後の部分を抜き出してみると次のようになる。「その後、大納言も問はれなどして、ことあらはれての後なん流されける。応天門をやきて、信の大臣におほせて、かの大臣を罪せさせて、ーの大納言なれば、大臣にならんとかまへけることの、かへりてわが身罪せられけん、いかにくやしかりけん」。このことから、「伴大納言絵巻」の最後の調書と、「伴大納言応天門を焼く事Jの最後の部分とは、ほぼ同文であることがわかると同時に、両者ともその末尾は、「いかにくやしかりけん」で終わっていることがわかる。つまり、「伴大納言絵巻」に記された詞書末尾の表現は、当時広く流布していた説話の文章を採用したものであると理解できる。従って、この末尾の表現には、説話が成立した当時の、伴善男の霊に対する人々の認識が反映されているとは考えられでも、この表現によって、「伴大納言絵巻jの制作目的を特定するのは不十分な考え方だと言えるだろう。( II ) 第二の点について小峯和明氏は、御霊であり怨霊である伴善男の顔貌は、敢えて明らかには描かれなかったという説を示している(注3)。小峯氏は、「伴大納言絵巻」において伴善男の姿が描かれているのは、下巻第15紙の、牛車に乗せられて連行される場面のみと考え
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