大納言が御霊信仰の対象となっていたことを示すものと言えるだろう。しかし、この台調は、次のように続く。「我れは心より外に公の御為に、犯を成して、重き罪を蒙れりきと云へども、公に仕へて有し問、我が園の思多かりき。此れに依て、今年天下に疾疫震(おこり)て、園の人皆病死可かりつるを、我れ咳病に申行つる也。然れば世に咳病院(ひま)元き也j。つまり、悪性の疫病が蔓延して、人々が大勢亡くなるはずであったものを、行疫流行神となった伴善男の霊が、咳の病の流行に止めたというのである。伴善男の霊がこのように語ったことについて、小峯和明氏は、「御霊としてはいささか力の弱い存在として登場する。畏怖される対象からやや零落していたということか」と述べている(注目)。しかし、この台詞は、そのように理解すべきものではないように思われる。この台詞の意味を素直に解釈すれば、この説話が記された時点において、伴善男の霊は、生前の恨みを押さえきれずに、ひたすら害をもたらし続ける脅威的怨霊としてのみ認識されていたのではなく、場合によっては疫病を和らげたり防いだりもしてくれるような、言わば、崇りもするが救いもするという、まさに神として認識されていたことの現れではないだろうか。伴善男の霊が語った言葉が、そのように解釈できることは、『道賢上人冥途記』において、同じように御霊信仰の対象であった菅原道真の霊が語った言葉と比較することによってより明らかになると思われる。両者の比較を行う前に、まずは、道真の霊が、崇りをもたらす怨霊としての性格ばかりでなく、人々を救済する神としての側面さえ持つようになっていった過程を見ておくこととする。菅原道真が、その死後に崇りをもたらす怨霊となったと考えられていたことは、延長元年(923)、皇太子保明親王が死去した際に、「菅帥(かんのそち)の霊魂の宿怠の為す所也」と記さたことに現れており(注11)、また、延長八年(930)六月二十六日、清涼殿に落雷して藤原氏等から死者が出た際にも道真の崇りによると考えられた。しかし、平安時代後期になると、道真の霊は、菟罪に苦しむ者を救済する神として信仰されるようになり始める。天暦九年(955)三月十三日、近江国比良宮の社人の子である太郎丸に下った託宣において、道真の霊は次のように語っている。133
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