鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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「我筑紫に有し程に。常に悌天を仰ぎて願ひし様は。若し命終(つ)きなば嘗世に我の如く慮外の実に遇はむ人。招じて佑(わび)悲しむ者をば、助け救ひ。人を況損せむ者をば札す身と生ぜんと願ひしを。思ふ如く成りたりJ(注12)。さらには、白河院から鳥羽院の頃において、無実の罪を着せられた者が、北野杜に参詣して罪の晴れることを願ったところ、真実が明らかとなって救われたという逸話が、『北野縁起j.『十訓抄j.『古今著聞集』等に認められる(注13)。このように、道真の霊に対する認識が変化していったことについて、長沼賢海氏は、「いわば菅神は祈祷の対照から信仰の対照へと変化した」と指摘している(注14)。そして、道真の霊が、人々を救済する神としての性格も担うようになっていたことは、『道賢上人冥途記』においても認められる。『道賢上人冥途記Jは、天慶四年(941)八月二日に、道賢上人が修行中突然息が絶え、その聞に死後の世界を見に行ったという体験について記したもので、その中で上人は太政威徳天となった菅原道真と会話している(注15)。その太政威徳天の台調を見ていると、『今昔物語集』所収「或る所の膳部、善雄の伴の大納言の霊を見ける語」に登場する伴善男の台詞と、次のような部分で共通項を持つことがわかるOつまりは、まず、「我れは是れ上人の本国の菅相府也」と、生前の自分の名を名乗り、次には、「我れ一切の疾病災難の事を主(っかさど)るJと、疫病や災厄を司る存在である御霊となったことを述べ、さらには、「昔日の怨心十分のーに息(や)む也。〈中略〉故に未だ巨害を致さずjと、やはり、本来は御霊がもたらすと考えられていた疫病や災厄等を防ぎ抑える働きさえもする存在として記されていることカfわかる。柴田実氏は、このように御霊信仰の対象に対する認識が変化していった過程には、中央政権によって御霊が特定の歴史的人格と結び付けられたことが影響したのではないかと述べている。つまりは、御霊が実在した特定の人格と結び付けられた時、御霊信仰は、その人格への追慕や尊敬へと発展する傾向を見せるようになり、さらには、菅原道真を天神として杷る信仰に典型的に表れているように、御霊神自体が高度な人格神へと発展する場合さえあったと指摘している(注16)。ここで、改めて『今昔物語集』所収「或る所の膳部、善雄の伴の大納言の霊を見ける語」を見てみると、この説話は、実在した歴史的人格である伴善男と、疫病をもたらす御霊とを結び付けたものであり、しかも、伴善男の霊は、疫病を和らげる働きも行う存在として描かれていることがわかる。従って、この説話は、伴善男の霊が、『今昔物語集』が成立した12世紀前半において、人々を救済する側面も持つ神として認識134

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