qu されていたことを示すものと言えるだろう。ところで、先に挙げた『道賢上人冥途記』における太政威徳天の台詞を見て行くと、次のように続くことがわかる。「若し我が在世の時に帯する所の官位に居る者有らば、我れは必ず之を傷害せ令めん。但し今日我が上人の矯にー誓言を遣さん。若し人有りて上人を信じ、我が言を惇え、我が形像を作り、我が名号を栴えて、態勲に祈請する者有らば、我れは必ず上人の析に相麿ぜ、ん」(注17)。柴田実氏は、「この冥土における道賢と威徳天との約諾とその論理は、かの『祇園牛頭天王縁起』における蘇民将来と牛頭天王との約束とまったく同ーの考え方に立つものであ」る、と指摘している(注18)。『祇園牛頭天王縁起』の内容は次のようである。牛頭天王が南海に赴く途中、日が暮れてしまう。そこで、はじめ、裕福な巨端将来に宿を借してくれるように頼んだ、が断られる。次に、貧しい蘇民将来に頼んだところ、その家に泊めて丁重にもてなしてくれた。そのため、牛頭天王は、巨端将来の一円春属を疫病によって皆殺しにし、反対に、蘇民将来に対しては、その子孫にいたるまですべて擁護することを約束したというものである(注19)。ここに挙げた、太政威徳天が誓った約諾と、牛頭天王が誓った約束とには、御霊神の両面性が良く現れていると言えるだろう。つまり、御霊神とは、脅威的な崇りをもたらす存在として認識されていた反面、それを厚く杷り信仰する者に対しては絶大な守護・救済の威力をもって応える存在としても認識されていたと言えるだろう。さらには、御霊神に、このような両面性を認める考え方が、当時の民間においても生じていたことが、『本朝世紀』天慶元年(938)九月二日の記述から窺われる。それによると、都の大路小路の辻々に男女一対の木像を把り、その前に幣吊を捧げたり香花を供えたりして、これを「岐神(ふなとのかみ)Jとか「御霊jとか称したとある。ここに記された「岐神」のフナトとは、道の分かれる地点のことであり、従って、「岐神」とは、岐路の神という意味を持つ。道の分かれる地点は、一種の区切り地と考えられたので、境で遮る神という意味を持つ「塞神(さえのかみ)Jと同一視される傾向にあった。これらの神の始まりは、集落に邪霊悪鬼の類が立ち入らないように、遮2 制作の契機について
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