り、跳ね返すための呪物を境域に置いたことであったと考えられている。平安時代になると、都市の発展に伴って疫病の流行に敏感となり、そのため、これらの神を辻に杷って、内域を守ろうとするようになっていた。つまり、この『本朝世紀』の記述に見えるフナトノカミとは、境界地にあって疫病等の侵入を防ぐために杷られたものと考えられ、そして、そのような疫病の侵入を防ぐカミが、「御霊」とも呼ばれていたとある。従って、この記述は、10世紀前半には、民間においても、本来は崇る神であった御霊が、いつのまにか疫病を防ぐ神、崇りをm友う神としての性格も帯びるようになっていたことを示すものと言えるだろう。柴田実氏は、この記述について、「従来この世に災厄をもたらし、人々に属をなす怨霊としての御霊ではなくて、かえって逆にその災厄を塞ぎこれをさえぎるものと観念されるようになっていたことを告げるものJだと指摘している(注20)。そして、このように御霊が崇りを封じる神としての性格も担うようになった理由について、西郷信綱氏は次のように述べている。当時の平安京の住人たちの多くは、あちこちから新都に移って来た者、ないしはその子孫であり、その限りにおいては、彼らは、氏族や村の伝統的紐帯、さらには、氏神からも切り離された人々であった。また、貴族や官人たちも古里の大和を後にして引っ越して来たわけで、、そのようにそれまでの生活に別れを告げた精神的な代償は相当なものであったと考えられる。つまりは、彼らは頼りにできる神を今や身近に所有しておらず、そのような平安京での生活がもたらす不安や動揺が蓄積されていったことは確実であったと考えられる。従って、歌舞音楽を伴う御霊会は、単に御霊を慰撫するだけでなく、参加した人々の魂をゆさぶり、それを癒すところに独自の力をもっていたと考えられる。そのため、御霊神を把る祇園杜等を通じて、人々は自らの新たな守護神を模索し創出していったのである(注21)。ところで、小松茂美氏は、「伴大納言絵巻」が後白河院の命によって制作され、当初は蓮華王院宝蔵に収められていたとする見解を示している(注22)。また、「伴大納言絵巻」の筆者については、黒田泰三氏によって、常盤源三光長真筆と考えられることが近年再び唱えられており、この常盤光長は後白河院側近の絵師として活躍したことが知られている(注23)。これらの先行研究の指摘から、「伴大納言絵巻」は後白河院の命によって制作された可能性が高いと思われるが、もし、後白河院が注文主であったならば、平安時代後期に起こった御霊神に対する認識の変化は充分把握していたと考えられるだろう。後白河院は、橘逸勢杜祭を復興したり(注24)、祇園御霊会に数度にわたって寄進を行なったりする等(注25)、御霊会の励行に熱心であったことが知ら136
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