鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
147/592

円弓υヴi26)。れており、また、有名な今様狂いからもわかるように市井の文化に対して常に強い関心を持ち続けていた。そのような後白河院が「伴大納言絵巻jの企画者であったならば、その制作の目的は、御霊・伴善男の鎮魂だけには止まらないように思われる。「応天門の変」を題材とした説話を絵巻化するという、言わば、御霊神・伴善男を手厚く杷り奉る行為を執り行うことによって、その絶大な守護・救済の威力が、後白河院自身に対して発揮されることを期待したのではないだろうか。それでは、具体的には、どのような事象が、制作の直接の原因となったと考えられるだろうか。源豊宗氏は、安元三年(1177)四月二十八日に起こった安元の大火により、応天門が焼失したことが、「伴大納言絵巻」を制作する直接の契機になったのではないかと推測し、「治承元年(1177)乃至は二年の交に輩かれた」のではないかと述べている(注この安元の大火の凄惨さについては、鴨長明が記した『方丈記』をはじめとして、『玉葉Jや『百錬抄』等にも詳細に記されており、この火災が当時の人々にとっていかに大きな災害であったかが充分に推測されるところである。従って、この安元の大火が、「伴大納言絵巻」を制作する契機となった可能性は高いと思われるが、注意すべきことは、安元の大火に前後して、災害や天変地異等が当時連続して生じていたことである。前年の安元二年(1176)六月から七月にかけては、高松院・建春門院・六条院の三院が相次いで病死し、「古今に未だ有らざる希代の事也」と記される(注27)。安元の大火の翌年、治承二年(1178)三月二十四日には、治承の大火と呼ばれる火災が再び都を襲う。さらには、治承三年の夏には疫病が流行し、治承四年四月二十九日には、竜巻が起こり、震が降り、雷が落ちるという現象が一日の聞に立て続けて起こり、治承四年七月十九日には、警星の出現が記録される。ところで、「伴大納言絵巻」の注文主としては後白河院が想定されることを先に述べたが、この時期は、後白河院自身にとっても激変の時であったことが確認できる。治承元年六月一日には、後白河院の近臣である藤原成親や僧・俊寛を中心とした者たちが、東山の鹿カ谷において平氏打倒の計略を企てて失敗に終わるという、所謂、鹿カ谷事件が起こる。そして、そのような態度を示した後白河院に対して、平清盛は、治承三年(1179)十一月二十日から治承四年五月十四日まで、後白河院を鳥羽殿に幽閉し、太政大臣以下多数の貴族の官職を奪って処罰するといった強圧的な手段に訴える。

元のページ  ../index.html#147

このブックを見る