さらに『ガゼット・デ・ボザール』とこれらの挿絵入り競売カタログの関係は、同じ年の8月号に掲載された、ポール・ルロワによるサロンの版画部門評によっていっそう明確に言及された。ここでは、サロン出品作の中でも特にパパンとラ・ロシュブ・侯爵の競売カタログの挿絵として作られた複製エッチング群が取り上げられ、「真の愛好家が長く待ち望み、『ガゼットJが全力で後押しした改革の兆し」として紹介される(注9)。正確には、『ガゼ、ツト・デ・ボザール』と競売カタログの挿絵制作を通じた関係は、この年に始まったことではない。大規模な競売が続いた1860年代後半から1870年代初頭には、競売準備中の個人コレクションを紹介する挿絵入り記事がしばしば『ガゼツト・デ・ボザール』に掲載された。ここで使われたエッチング挿絵は、市販の競売カタログに「付け加える」挿絵として編集部から販売されていた〔図6〕。報告者の調査によると、テキストのみが主流であった競売カタログの世界で挿絵入り版の並行販売が一般化していくのもちょうどこの時期である。しかし、初期の挿絵入り競売カタログは比較的小版である上、対象の輪郭をなぞっただけの線刻版画が使われるなど質にばらつきが見られた〔図7〕。美術に関する迅速かつ適切な指針を視覚的情報と共に提供しようとしていた『ガゼット・デ・ボザール』(注10)は、当初、既存の競売カタログに増補する挿絵の提供という形で、良質な競売カタログへの需要と現状との隔たりを埋めようとしていたと考えられる。しかし、1873年には、競売カタログの編纂と当初から連動した挿絵入り記事の掲載が始まった。さらに、こうした協力関係の下に作られたエッチング挿絵がこの年のサロンの版画部門に出品され、そこに「挿絵入り競売カタログの改革の兆しjを見るサロン評が発表されたことは上述した通りである。確かに、競売カタログに関係する挿絵がこれほどサロンに出品されたのは1873年がはじめてであった。かつては、「絵を細心の正確さで複製する意図はなく、ただ構図がどんなものであるのかという点と絵の重要性を伝えるものである」(注11)〔1872年、ベレール〕ともいわれた競売カタログの挿絵に対して、「カタログの挿絵入り版のために、われわれは一流のエッチング版画家たちのもとに出向き、挿絵が単なる粗描ではなく、彼らの才能とわれわれに託された豊かなコレクションに完全に値する版画となるように努めた」〔1873年、ラ・ロシュブ…侯爵〕と明言されるなど、カタログ制作者側の意識の変化も明らかである。実際、ラ・ロシュブ…侯爵の競売カタログに由来するグルーの複製エッチングはこの年のサロン入賞作ともなった〔図8〕。143
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