投機的競売の仕掛け人たち画商レオン・ゴシェしかし、関連する上記4つの競売について、競売記録や関係者の証言等を調査した結果、どれもこの時期に典型的な、画商とコレクターの協力下に開催された投機的競売であったこと、上で触れたサロン評自体、その当事者の一人である画商レオン・ゴシェが、批評家としての別名ポール・ルロワの下に発表したものであったことが判明した。まず、ドラクロワやパルピゾン派からなる1830年派を中心としたローラン=リシヤールとフォールのコレクションの競売が、著名な画商ポール・デユラン=リユエルによって計画されたものであったことは、すでにいくつかの先行研究が示す通りである(注12)。第二帝政期から第三共和政期初頭にかけて、デュラン=リュエルはさかんに競売制度を利用した宣伝戦略を展開していた。軍資金と引き換えに売出しをはかる絵を顧客のコレクターに預け、「キャンベーンjを張り、しかるべき時がくると彼の名前を使って競売を聞く。「画商に対しては強い偏見があるため」、画商の名前よりも愛好家の名前を冠した競売のほうが成功しやすいからである。一方、競売当日になると、その後の取引基準となる「市場価格Jを作り出すべく、仲間とともに意図的な落札値のつり上げをはかるのであった。省略形を使って身元を暖昧にしつつも「高貴なコレクター」であることを匂わせたラ・ロシュブ…侯爵の競売もまた、画商ゴシェを中心に、デュラン=リュエルをはじめ画商やコレクターらの協力の下に仕掛けられた投機的競売であった。多くの19世紀の手稿を所有していたモロー=ネラトンは、1873年のローランニリシヤール、フォール、ラ・ロシュブ…侯爵の競売はどれも、デュラン=リュエルが1830年派の市場価値を上げるために仕組んだもので、「ラ・ロシュブ…侯爵」とは投機家集団だったと結論づける(注13)。一方、フリッツ・ルフトの競売カタログ総覧では、この競売の項目にはわざわざ「レオン・ゴシェが集めた」作品群であることが記され、さらに、当時の関係者の書簡では、これは「画商のゴシェが大々的に仕組んだ、もので」、「デユランが売り込みをはかる」ことになっていた競売であると明言されていた(注14)。競売原簿の記録なども併せてこれらの情報を再構成してみると、この競売は主に、イギリス絵画や17世紀オランダ絵画を中心とするオールドマスターにはゴシェとその仲間たちが、1830年派を中心とする同時代絵画にはデュラン=リュエルとその仲間達が、資金や売り込み、値のつり上げにおいて深く関与していたものと想定された。ラン=リュエルとの直接的な関係は現時点では不明であるが、他3つの競売と同様、17世紀オランダ絵画を中心としたパパン・コレクションについては、ゴシェやデユ-144-
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