鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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デユラン=リュエルが鑑定家をつとめていた。さらに、ラ・ロシュブ…侯爵の競売と同様、競売カタログの序文執筆もこの鑑定家/画商が担当し、収録作品の価値を保証している。また、『ガゼット・デ・ボザール』の紙面で、パパン・コレクションの紹介記事を執筆したルイ・ドゥカンはゴシェの絵画取引に深く関わる立場にあり、美術館への寄贈をめぐる一連の動きなどからは、「lレイ・ドゥカンjとはゴシェのもう1つの偽名ではなかったかとすら推測された。越境するメディアとしての挿絵入り競売カタログこのように、1873年の『ガゼット・デ・ボザール』に「競売を前にした重要なコレクション」として挿絵入り記事を通して紹介されていた4つの競売には、ゴシェを軸とした緩いつながりが見られることが確認された。ここで再び、ゴシェ=ルロワが発表した1873年のサロンの版画部門評等を参照しながら、『ガゼット・デ・ボザール』を舞台とした挿絵入り競売カタログの制作意図を考えてみる。異なる媒体問での挿絵〔版〕の共有は19世紀にはさほど珍しいことではない。挿絵の制作には時間も費用もかかったからである。『ガゼット・デ・ボザール』の記事と競売カタログの挿絵の共有にも、コスト削減という経済的な理由をまず挙げる事ができる。ラ・ロシュブ…侯爵とパパンの競売原簿の記録によれば(注15)、前者34点のエッチング制作費が約2万7000フラン(全体の諸経費が約14万2816フラン)、後者は、同様ング挿絵1点に800フラン前後もかけていたことがわかる。より詳しい情報が記されていたパパンの競売原簿の記録に従えば、この費用は、他誌と比べても格段に高い『ガゼット・デ・ボザールjの記事掲載費自体(7ページで500フラン)よりも高かった。しかし、本事例においては、こうした経済的理由よりも、テキストの引用ならぬイメージの共用によってさまざまな「場jと交差する挿絵入り競売カタログが作られていた点、すなわち、学術的な美術雑誌や、サロンという正統的な美術領域とのイメージの共有が競売全体にもたらす効果が注目された。まず、サロン評のゴシェ=ルロワは、美術愛好家へのアビールを明確にしている。かつての挿絵入り競売カタログは、「繊細で洗練された人々」が「書斎の棚の片隅に押し込めていた」ような代物であったが、パパンやラ・ロシュブ…侯爵の競売カタログには、「コレクターたちの高い人気を集めていくようなエッチングが挿入されたんこの種の春修品的な競売カタログが作られる素地は確かにすでにできていた(注16)。1860年代のエッチング再評価の高まりは、特にフランスでは1870年代の挿絵入り出版に4点で約3191フラン(全体の諸経費8万2261フラン)であった。どちらも、エッチ145

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