鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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ていることである。昭和24年、子規残後永く子規庵を守った寒川鼠骨によって寄贈された子規旧蔵書の全体像は、『法政大学図書館蔵正岡子規文庫目録』(1996年)によって窺うことが可能となった。本研究も同目録の成果に負うところが大きい。子規という市井にあったー鑑賞者の蔵書を纏まった形で、伝える子規文庫は、ひとり子規研究に留まらず、明治中期における美術鑑賞の一断面を示すものとして貴重な存在である。はじめに、子規旧蔵本の特質について、検討していくこととしたい。子規文庫の調査によって第一に明らかになったことは、子規が入手した画譜類の多くが、明治10年から20年代半ばを中心に版行されたものである、という事実である。『病林六尺』や『仰臥漫録』をはじめ、子規晩年の文章には、尾形光琳『光琳画式』(文化15年)や酒井抱一『鷲郁画譜j(文化14年)など江戸期に刊行された画譜の名が多く登場する。テキストのみに拠っていると、これらが江戸期刊行の諸本であることは無論、子規ほどの人物であればさぞ、摺りの良い佳本を持っていたことだろう、と漠然と思い込む危険がある。しかし、現実には、江戸期刊行の画譜であっても、子規の手沢本はその大半が明治中期までの再摺本である。この時期、江戸の画譜がしばしば再刊され、江戸の画譜類への小さからぬ需要が存在していたことを暗示している。それらの内には、再摺本の他に、明治に入って新たに編まれた小画譜類があり、渡辺幸山、椿椿山、高久霧崖など峯椿系文人画家の作品が多くを占めている。従来、明治以降の絵画界にあっては、西洋絵画の本格的受容と日本画の近代的革新という時流の裡で、文人画は衰微の一途を辿ったという印象を抱かれがちであるが、文人のイメージと強く結びついた画譜の隆盛は、文人画がいまだ根強く命脈を保っていたことを示している。題画詩のみを輯めた小冊『墨客必賞題董詩』乾坤(小林光国輯)が、画譜の再刊とほぼ同時期、明治11年に作られていることからも、文人趣味の強固さを垣間見ることができる。子規自身にも、画賛を論じた一文がある(『病林六尺』五十七)。当時、子規が懇意にしていた書躍・朝倉屋はこの種の再摺本を数多く扱っていたと考えられる。子規文庫の画譜は、このような文化状況のなかに子規が身を置いていたことを証している。しかしながら、子規旧蔵の画譜は、文化史的価値と同時に、少なからぬ問題点も内包している。まず、絵画としての質の問題がある。同ーの版木によって摺られてはいても、明治の再摺本は、江戸の刊本と較べると、その美的水準に少なからぬ隔たりが認められる。とくに色彩の表現においては繊細さを欠くものとなり易い。生命の色として終生特別な愛情を寄せた「赤」をはじめ自然の色彩美に鋭敏な感受性を発揮した子規にとっては(注1)、鑑賞上の大きな制約になったと考えられる。子規が「毎朝毎晩それをひろ153

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