鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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初編.I(七二0/一八)は、「薫斎」様の図柄を再構成したものであり、その完成度におげて見ては無上の楽Jとし(『病林六尺J二十七)、両者の特質を比較検討した『光琳画式』(七二一/一二数字は子規文庫請求番号、以下同)、『鷲郁画譜.I(七二0/二五)も、子規が眺めたものは明治の再摺本であり、江戸期の刊本に較べ、その色彩表現が平板化し、微妙な味わいを欠くことは否めない。これによって、光琳、抱一両者の表現上の特質を感受し、論じることは相当の危険を伴うが、光琳の意匠の巧さ、抱ーの描写の柔和さを看破する子規の評価が、今日の美術史上の評価に照らして大きく隔たらないことは、その卓越した眼の力を証するものである。しかし、総体において、子規の鑑賞と批評が全てに一級の質を備えた画譜に拠るものでないことは銘記しなければならない。さらに、明治期に制作された画譜類には、画家の作品そのものから逢に遠く離れた内容をもつものがある。江戸文人画家の小画譜類に比較的多く、典拠となった作品の真贋はおろか、作品の存在そのものが疑問とされるものまで認められる。子規は、子規文庫本に見る限りにおいて、このような極端に暖味な内容をもった画譜類は避けていたように思われる。江戸刊本の再摺本が多くを占めていることは、子規の正統的美術史への志向を裏付けている。再摺本の問題に加え、改めて注意を要することは、今日の研究者が想定するものとは異なった内容をもっ本を、子規が眺めていたことである。鍬形惹斎の「略画」は、その端的な一例である。薫斎による画譜、ことにその『略画式Jのシリーズは江戸絵画史上高く評価されるものである。子規が「略画」について、「二、三十人も一直線に並んで居る処を画jくものや、「行列を縦から見て画く」例を挙げながら、日本に類例の少ない幾何学的表現の斬新さに触れた一文は(『病林六尺』六十三)、私たちの知る『人物略画式』(寛政7年)の批評としても離闘のないものであり、『人物略画式』原本に子規が触れたことを十分予想させるものである。しかし、子規文車本『薫斎略画式いてはオリジナルに遠く及ばない。子規はそこに収められた、一直線に整列する人物描写を観て、意斎の特筆を論じている。その評価は今日の美術史的研究水準から見ても正鵠を得ており、その表現の本質を見抜く子規の眼は高く評価されるが、子規の鑑賞がこのような画譜によってなされていることは改めて注意を要する。「何を見ていたかJを具体的に知ることの大切さが知られよう。かつて管見に入ったものとして、歌川広重の『州筆画譜』と同一の版木を再構成して表紙と序を差し替え、上方の浮世絵師・長谷川貞信の画譜としたような極端な作例も存在する。幕末明治期における画譜の出版は、このように混乱した状態にあったが、個人レベルの需要のもとに制作された、これら一群の画譜の存在は、一人で絵を楽し-154-

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