3.子規絵画鑑賞の様相と特質む個人鑑賞者の存在を暗示するものである。子規が、これら個人鑑賞者を代表する一人であったと考えられることは、極めて重要である。子規文庫に多く収められた画譜類は、それらがオリジナルと遠い幕末明治期の刊本であり、また特定画家の鑑賞や研究に臨んでは美術的、学問的根拠に乏しいという理由から、これまで顧みられることが少なかった。そのため、すでに多くが散逸したものと思われる。しかし、個人レベルにおける明治期の鑑賞の様態を知るためには、これらの画譜の全体像を把握することが必要となる。子規文庫の諸本は、その稀有かっ貴重な例である。現在、子規の言及した作品を視野の中心に収めつつ、可能な限りこれら幕末明治期の画譜の蒐集を試みている(注2)。今後とも蒐集を継続させ新たな課題を導きだすための基盤としたい。.画譜の鑑賞子規による美術鑑賞をもっとも大きく特徴付けるものは、その鑑賞対象の大半を画譜類が占めることである。これは子規が絵画の鑑賞へと大きく傾斜していった晩年の数年間、「六尺の病林」を殆とキ離れ得なかった事実が大きく影響している。いまだ身体の自由が利いた頃には、大会場で行われる展覧会も実見していた。日記と俳句を併せ記した明治26年の『瀬祭書屋日記Jには、「輿虚子観上野博物館J(三月三十一日)、「輿虚子古白見上野美術展覧曾」(四月三日)、「遊上野、観緊美館J(七月十一日)と見え、門弟友人と上野の博物館、美術館を訪ねていることがわかる。さらに、『松羅王液』の明治二十九年十月二十二日の条には、絵画展覧会(詳細不詳)、絵画共進会、白馬会の批評を掲げ、実感にもとづく捉われのない批評を試みているが、晩年、それが不可能となってからは、大規模な展覧会の話題は見られなくなる。病床の枕元に積み、いつでも手に取り眺めうる画譜は、子規の身体的条件によって選び取られたといえる。しかしそれは、大会場での鑑賞の代替物として消極的に選び取られたものではない。子規の鑑賞が身体性を強く帯びていたことが、画藷への愛着の根源にあった。子規は、手で触れることのできるもの、掌に乗るものへ切なる愛情を注いだ。原安民が子規のために鋳造した蛙、天田愚庵が贈った陶磁の子犬など、みな掌のなかにあって子規を慰めたものである。井上藁村から粛されたアムール河の小石には、子規の掌の温もりが残るようである。画譜もこれらのオブジェと同じ世界に生きた。子規にとって、見ることは、触れることでもあった。近世以前には、画譜、錦絵に限らず絵は「触れて見るjものであった。画巻は触れなければ鑑賞そのものが成立しないし、掛幅や!弄風-155
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