鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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にしても、広げる、巻く、畳むという行為のなかで見えてくるものは思いのほか大きい。子規はこの近世的な鑑賞のあり方を、自らの身体的条件を引き受けるなかで具現化したといえる。画譜という形式に愛着を寄せた背景の一つに、子規の文人的気質があったことも看過できない。それは、明治へと連続する江戸の文化的伝統のうちに養われたものであった。江戸の文人たちは、障扉画といった大画面よりも、画帖など小画面をより好み、自分一人の世界で書画に沈潜することを愛した。俳句や短歌を志す以前、若き子規には漢詩人たらんとして果たせなかった経験があり、終生、漢詩への愛憎相半ばする感情があったと推測される。文人趣味のひとつの象徴たる画譜の愛好は、このような子規の文化的志向の内に養われたとも考えられる。−絵画鑑賞の限界/錯誤について画譜中心の子規の絵画鑑賞は、時にその限界を露呈する。それは、子規の鑑賞範囲の狭さによるばかりではなく、子規が所持し、眺めた画譜そのものの質が必然的に粛すものでもあった。先に述べたように、子規が眺めた画譜に江戸期のオリジナルは少なく、多くは幕末明治期の再摺本である。それらのうちには、原本の序肱や詩文を削り、色版を省略したものがあり、子規旧蔵本にも、このような改変の跡が認められる画譜がある。子規が高く評価し、『病林六尺J(六、十〜十二)で長文の批評を試みた『南岳文鳳手競画譜J(七二0/五)はその代表的な例である。これは、本来、文化2年、上田秋成の作った「海道狂歌合」に、渡辺南岳、河村文鳳の両者が絵を添えたもので、図様の正確な理解のためには秋成の狂歌を併せ読むことが必須である。子規旧蔵本ではこれが削除されているために、子規が図様の理解に苦しんだものも少なくなく、いくつかの絵で、は誤った解釈を下している。これらについては、すでに、仲田勝之助氏が『絵本の研究』(美術出版社昭和25年)で指摘されるところである(注3)。自分の感受性に忠実に、等身大の感覚で目の前の絵に向かおうとする子規の態度が、鑑賞対象である画譜そのものの質と相侯って錯誤を生んだことは、子規の美術鑑賞の在り様として虚心に見つめなければならない。−絵画鑑賞と俳句の美意識子規がもっとも好んだものは、「命の次に置いて居る」(『病林六尺J百十一)草花を描いたものである。複雑な構図を伴うものは少なく、一つないし二つのモティーフを組み合わせた単純な図をとりわけ愛した。これらの絵は、自然に価値のヒエラルキー156

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