鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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を設けず、どんな小さな一部分をも、捨象と象徴のプロセスをへて作品に昇華させる子規俳句の造形法と規をーにしている。病室の窓ガラスをひとつのフレームとし、そこに切り取られた小園の無垢な自然を喜ぶ感受性は、小さく単純な絵を愛する子規の心性へと通じている。加えて、子規の好んだ画譜には、『立斎州筆画譜J二編(七二0/二0・二)や『公長略画』乾坤(七二0/二六・一、二)など、小さな絵を蒐めて一書としているものが多い。少ない筆数で自然を写す略画や草画を好むのも、子規の俳人としての自然観照の在り様を伝えている。とりわけ死を目前にして愛した『公長略画』乾坤(文久3年)は、子規の好みを最も端的に示したものといえる。自然や人事の断面を略筆で描いて淡彩を施し、一見脈絡のなきごとく配した表現は、自然のコラージュというべき俳句の表現法に通じる。形体の描写を重視せず、描き手の印象にもとづく恐意的な変形を試みる、いわゆる「俳画jではなく、あくまで写生に立脚しながらこれを最小限の筆で表現する公長の小品は、子規自身の志向するイメージによく適うものであったろう。子規にとって、絵を眺めることが、子規個人の自然観、美意識の発露としてひとつの独立した創造行為であったことが知られる。−絵画と現実の連続一一実感と仮感の融合子規が江戸の画譜を愛したことの裡に、自らを養った文化的濫鰐への思慕があったことは確かである。子規と親しく交わり、子規の絵画観に大きな影響を与えた中村不折も、広重の錦絵を画帖に仕立て、絵本のように眺め暮らしたという。江戸美術に寄せる二人の愛情には相通じるものがある。しかしそれは、例えば、幕末明治期を戯作者として過ごした高畠藍泉が、失われつつある江戸文化への愛惜から、同好の志とともに纏めた江戸文物のアンソロジー『麓の花』(明治12年)に象徴される、懐旧的心情とは異なっている。さらに時代が降った、永井荷風の『江戸塞術論』(大正9年)にみえる、西洋文化の洗礼を通過しての江戸文化札讃とも異質である。子規にとって、絵は現実と明瞭に区分されるものではなく、そのまま現実への窓/通路となった。遠く離れたものとしてではなく、現に今、眼の前にあるものとしてこれらの画譜を楽しんでいる。いつでも、自らの経験・記憶に付き合わせて、画譜の絵を味わう。江戸の草花の絵によって、子規の感覚は、眼の前の自然へと導かれ、病林を中心とする小さな生活空間を拡張していく。草花の絵を所有することは、それが江戸の画家のものであっても、自ら画いたものであっても、自然そのものを掌中におさめることであった。風景も同様である。河村文鳳『帝都雅景一覧』東西・南北(七二一/-157-

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