あった。それ故に、これを批評する眼は厳しく、アンデルソン著・末松謙澄諜述の『日本美術全書沿革門』(明治29年刊七二一/一一)の平板で不十分な内容と拙劣な序肢を批判し(『松羅玉液J明治二十九年八月十三日)、漢文体で書かれた一葉摺「尾形光琳伝J(明治三十四年四月文学博土重野安鐸撰)の荒唐無稽な内容を痛罵している(『墨汁一滴』明治三十四年四月二十三日)。作品の真贋を巡っても、鋭敏な眼をもち、文鳳の署名ある亀に水草の掛幅を「偽筆らしjとし(『病林六尺J八十)、松宇の携えて来た「宝暦五年蕪村」と記される文台の真偽を、落款の見慣れぬ書体故に保留している(『墨汁一滴』明治三十四年六月五日)。それでもなお、実際の鑑賞に臨んで、は、これらの規範に拘泥することなく、あくまでも自らの感覚に忠実たらんとする。その眼の純粋性は私たちの胸を衝く。自己の眼に徹底して依拠する態度は、今日の美術史的標準とはやや異なる評価を導き出す。たとえば、雪村の印象を、「ある人雪村の画を賞揚すれども雪村は筆力余ありて神韻足らず、従って其画を観て微妙の感を起す事無し」(『松葉玉液』明治二十九年十月二十二日、絵画展覧会評)と語り、「浮世画家中の大家広重」を、「とにかく彼は憧に尊ぶべき画才を持ちながら、全く浮世絵を脱してしまふことが出来なかったのは甚だ遺憾である。浮世絵を脱しないといふことはその筆に俗気の存して居るのをいふのであるJ(『病林六尺』十九)と評する。奇想、の画家として評価の定まった産雪も、「産雪らの筆縦横自在なれどもかへってこの趣致を存せざるが知し」(『病林六尺』六)と断じている。これらの評価は、今日の視点から見れば不審に思われるかも知れない。その一方では、文鳳、南岳、公長、月樵といった今日では美術史的対象として顧みられることの少ない絵師たちを高く評価している。「広重には俗な処があって文鳳の雅致が多いのには比べものにならんJ(『病林六尺』二十二)という評価に共鳴する美術史家は今日殆どいないであろう。子規の眼をどのように考えたらよいのだろうか。これらの絵師たちの画譜が明治期に翻刻された背景には、一定の美術的評価が存在したと予想されるから、ひとり子規の評価が同時代の感情から大きくずれていた訳ではないと考えられる。それでも、子規の他者を顧みない自由な評価は、周囲の門弟たちにさえ不可解に映ったらしい。高漬虚子と並ぶ子規門の雄、河東碧梧桐は子規の描く写生画の素晴らしさを回想した「絵を画くJ(『子規の回想』昭南書房昭和19年所収)のなかで、子規が愛した画譜の絵師たちに触れて、「文鳳だの南岳だの公長だの一意だの、近代の筆工と言ってもい\上すべりのした作品を、恋するといふ程に、熱意をこめて追ひ廻はす、それが本気の沙汰であることが、どうも私には呑み込めなかったjと書いている。そして、子規が瀕死の床にあって、渡辺南岳の「四季草花絵159
元のページ ../index.html#169