巻」(東京塞術大学大学美術館蔵)を恋人のごとく焦がれ、ついに所蔵者澄道和尚より譲られ我が物としたことが、「大なる不可解な事件として、私の眼に映jじ、「私は今一度子規に会へるものなら、何より先ず此疑問を提出したいと思っている」と述べて文を結んでいる。今日の美術史的常識に泥んだ私たちにとっても、日常使いの団扇の図柄や(『病林六尺J五十八)、隣家の童女の絵をも真面白な鑑賞の対象とする(『墨汁一滴』明治三十四年三月十四日)子規の審美眼への疑念を提出することは容易い。けれども、つねに子規の身近に寄り添い、誰よりj莱くその生理と思考を理解したであろう碧梧桐をしても思い及ばなカ、つた「独りぎめ」による美の判断(『墨汁一滴』明治三十四年六月十九日)によつて選びそ、子規の絵画鑑賞の真髄はある。子規の鑑賞を貫くものは、絵を心底味わい、楽しみ、これによって、一瞬一瞬の生の実感を充実させ、自らを生かし、支えていこうとする明瞭な意思である。子規は、心身ともに大苦痛を来したとき、「唯一の救助法は画本を観ることに候これも彩色本殊によろしく候これなれば現在を楽み未来に苦を残さず候Jと書いている(明治三十五年五月二十九日付水落露石宛書簡)(注5)。それは、江戸の文人たちの「白娯jの態度を更に先鋭化したものといえる。理知的な方法論によって芸術に関わろうとする近代の鑑賞者には、退嬰的と映るかも知れない子規の姿勢は、「絵を見ることJ「絵を持つこと」が、一人の人間にとってどのような力を持つのかを、純粋に見せてくれる。美術史的評価と個人の鑑賞の相克/衝突という、すぐれて今日的な課題を子規は体現しているのである。そのような「白娯」の極限的な在り様は、碧梧桐が子規の偏愛を訪しんだ南岳の「四季草花絵巻」をめぐって現れた。子規は「余が所望したる南岳の州花画巻は今は余の物となって、枕元に置かれて居る。朝にタに、日に幾度となくあけては、見るのが何よりの楽しみで、ために命の延びるやうな心地がする」(『病林六尺J百十一)と書く。ここには、子規と絵の交わりのすべてが語られている。子規にとって、絵は枕元に置かれ、朝夕、手で触れうるものでなければならない。自らの感情のままにいつでも眺めうるものでなければならない。自らの掌中に収められた一つの自然たる草花の絵は、彼の命と融和し、「命の延びるやうな心地」を粛してくれる。「命の延びるやうな心地がするJ絵の力をこのように言い切った人物を子規の他に知るところがない。4.結20世紀以降の理知的、芸術至上主義的な絵画鑑賞において、絵に触れるという身体160 。。
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