鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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(1) 張辛筆〈花昇図〉(模本)[原本=泉屋博古館蔵]2.原本に関する新知見湖は文晃と同じく@徐謂を押えたうえで、さらに、その系譜に属する揚州派系の⑫高鳳翰・⑬鄭箕・⑭陳鴻寿や、徐j胃に私淑した清末の来舶画人⑮鳴鏡知にまで学画の対象を広げている。(ホ)まとめ以上の主題別分析の結果を総括すれば、晴湖の画房における明清画学習および粉本集積という営為は、おそらく師の枚目水石を経て継承したであろう文晃の学画方針を基本理念としつつも、主題によっては、晴湖独自の判断基準に基づいた自由かつ積極的な展開を見せており、その結果、清代絵画に関しては、学画対象が丈晃のそれに比して格段に広汎かっ多様になっていたと整理することができょう。その背景には、むろん、晴湖の旺盛な学習意欲が窺えるが、その貧欲な中国画摂取を可能ならしめた現実的な問題をも視野に入れておく必要があろう。幕末以降に明清絵画の優品が相当量舶載されて来たという状況が、それである。実際、『激芳閤書画銘心録』には、文晃の時代には言及されることのなかった清代画人名が少なからず見受けられるが、とりわけ注目すべきは、「近時画家、多喜、朱昂之、李照泰、孫桐、邑元之筆、(傍線筆者)」(注6)という浅野梅堂の評言である。ここに列挙された4名とも晴湖粉本に含まれており、晴湖の画房における学画姿勢が、こうした幕末期南画家の動向をも敏感に反映していることが確認できるのである。これ以降も、内憂外患による清朝末期の政治的社会的混乱に伴う文物の流出傾向と、日清通商条約の批准・日中海運の利便化とが相候って、明清絵画の日本への流入が、ますます促進されていったという状況は、明治大正期の煎茶会記における明清書画展観席の充実ぶりが如実に物語っている。このように、明治期の南画家は、こと中国画学習に関しては、前代に比してはるかに恵まれた環境にあったというべきであろう。晴湖の場合についても、その時代的恩恵、を十分に享受した結果、充実した粉本集積がはじめて可能となったという側面を見逃すことはできまい。粉本資料の原本である明清画の特定に関して、筆者はすでに多くの成果を得ているが(注7)、さらに新しく得られた知見のうち、特筆すべきものをここに報告しておく。但し、紙数制限のため、図版はすべて割愛した。この点、御諒解を仰ぎたい。(イ)原本が現存するもの

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