⑫近代大阪における女性画家の研究研究者:大阪市立近代美術館建設準備室学芸員小川知子1.はじめに問題の所在「女絵師女うたびとなど多く浪華は春も早く来るらし」と歌われたように、大阪では大正時代、大勢の女性画家が活躍した(注1)。東京では同じ頃、池田蕉園(1886-1917)や河崎蘭香(1881-1918)、栗原玉葉(1883-1923)が相次いで早世し、京都では上村松園(18751949)や伊藤小坂(18771968)が現役美人画家として名を馳せていたが、第一線の日本画家が集う東京や京都と違って大正初期の脆弱な大阪画壇に、突然、若い島成園(18931970)や木谷(吉岡)千種(1895-1947)を筆頭に優れた女性画家が多数出現したことは特筆に値する。大正元年、19歳の島成園が文展にデビューして上村松園、池田蕉園と並び「三園」と称せられた。大正4年までに岡本更園(1895-? )、吉岡千種、松本華羊(1893-? )が大阪から文展に入選、大正後期には北野恒富門下の橋本花乃、別役月乃、四夷星乃、服部文乃、星加雪乃、生田花朝、富田隆子や、成園画塾の秋田成香や伊東成錦、千種塾の「八千草会」から原田千里、多国千浪、三露千鈴、狩野千彩などが帝展や院展、大展(大阪美術展覧会)などで活躍した。成固と千種の塾生は、美人画家の北野恒富が主宰する「白耀社jの塾展にも孫弟子として参加し、白耀杜は大阪で最も有力な女性画家が集い、男性の塾生に実力でも人数でも肉薄する画塾だ、った。白耀社と女性画家の関係については「北野恒富展」の図録で別途論考した(注2)。大阪では明治35年頃、守住周魚ら女性南画家が「彰施会」を結成して大正期にも活躍するが(注3)、本論でとりあげるのは文展や帝展で活躍した女性の日本画家である。大阪の女性画家は大正から昭和初期にかけて質量ともに全盛期を迎え、近代大阪画壇の特色のひとつを成すが、大阪画壇の調査研究の立ち遅れも要因となり、長い間忘れられてきた。本論では、大正5年頃「女四人の会」を結成した島成園、吉岡千種、岡本更園、松本華羊をとりあげ、大阪画壇における女性画家のあり方を考察したい。従来の美術史から排されてきた女性芸術家の存在へ光を投じる研究はアメリカで1970年代に着手され、日本でもジェンダーの視点にたつ女性画家研究が1990年代より展開している(注4)。大阪の女性画家の存在は「美術都市・大阪の発見一近代美術と大阪イズム」展で初めて提起され、「木谷千種展」が昨年開催された(注5)。本研究の基礎資料は当時の新聞記事や『大毎美術』『美之国』などに掲載された雑誌記事、展覧会目録、遺族の証言や提供資料に、最近の研究成果も加えられるが、作品の再発見島成園と「女四人の会」の画家を中心に一一172
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