鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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2.「女四人の会」女性画家の時代の幕開け3.島成園は今後に残る大きな課題である。ほとんど同年輩の島成園、岡本更園、吉岡千種、松本華羊は仲が良く、四人とも文展入選を経験した大正4年秋頃からは行動を共にし、来阪した栗原玉葉にも揃って会いに行っている。この頃四人は西鶴研究会を組織し、大正5年5月に「好色五人女」をテーマに三越で西鶴研究展覧会を開催する。これが「女四人の会」第l回展で、成園がおまん、千種がお七、更園がお夏、華羊がおせんを描いた。井原西鶴の『好色五人女』(1868刊)は俗説や巷談をもとに、自ら犯罪の渦中に身を投じる元禄女性の激しさを描いた浮世草子である。薩摩での山源五兵衛との心中事件のおまん、幼い恋に殉じて放火の罪で江戸の鈴ケ森で火刑になった八百屋お七、姫路の商家の娘と手代の清十郎との密通事件のお夏、大阪の人妻の密通事件で自害する樽屋の女房おせんなど、遊里遊女の世界に限られていた従来の好色物と異なり市井の女性の恋愛事件に取材した点が新鮮で、池田輝方にも〈お七〉や〈お夏狂乱〉などの作例がある。展覧会は生意気な「遊戯」とも評されたが(注6)、自己を貫く西鶴の女に女性画家だけで取り組んだ点に意気込みを感じる。男性画家の後ろ盾なしに結成された「女四人の会jは、まさに女性画家の時代の到来を象徴する。会自体は翌年の第2回展で終了したようだが、女性画家同士の結束は成園や千種の悲願でもあり(注7)、やがて「向日会」(大正14年)や大阪女流画家展などに展開していった(注8)。大阪の女性画家ブームの先駆けとなった島成園は明治26年2月13日、大阪府堺市宿院町に生まれた(注9)。本名成栄。父の島栄吉は堺で道具屋を営み、母千賀は堺の乳守廓にある大茶屋の娘、兄一翠は浅田一舟に学んだ画家で御風と号した。成園は高等小学校卒業後、明治37年に堺から家族とともに大阪市南区に移る。14歳頃より父や兄が描くのをみて絵を独習し、17歳で明治43年の第一回大阪絵画春秋会に出品、この頃から北野恒富や野田九浦、岡本大更らとも交流し、画家への道を歩み始めた。一般に成園は恒富門下と見なされるが、恒富からは後輩として影響を受けていたと考えられる。千種は後年、成園が生涯「師」につかなかったため損をしてきた、と興味深い指摘を行っている(注10)。成園は大正元年、〈宗右エ門町のタ〉〔図l〕が第6回文展に入選して褒状となり、19歳にして画家として全国的に認められた。これは吉岡千種など後に続く女性画家た-173

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